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【エッセイ】 Goodbye Baby

新型ウィルスでどうなるかとも思っていたが、高校を終えた上の子は、今月の終わりから大学生になる。週があけたら、家を出て行く。


上の子は、小さい頃は、誰にも、困らせることなんかないんでしょ、と言われるような、おだやかで思慮深い子、つまり、おとなしい子だった。親の言うこともよく聞いたし、ピアノなど何かを教えてくれる人の言うことも、内心どういう気持ちでも、きちんと聞いて、言われたとおりにできる子だった。

米国で生まれ育った上の子だが、第一言語は日本語だった。そのすなおな性格のせいか、上の子は、下の子よりも、ずっと確かに、完全なバイリンガルだった。家で、私はずっと日本語しか話さないが、彼も私には、たとえ友達が近くにいても、日本語で返事をしていた。

でも、6年生を終えてすぐ、その上の子に、日本語はもう話さない宣言をされた。

私は、上の子を、生まれてからは下の子も、連れて、毎年一回は実家に帰るようになった。毎年でなくてもいいかなと思い出しても、バイリンガルに育つ子供がうれしくて、連れ合いの方が熱心になった。だから、上の子が小学生のうちは、私はフルタイムでの仕事もしていなかったので、夏休みにはたいてい、ひと月かそこら、実家に連れて帰った。

祖父母のところから帰る時は、上の子も下の子も、いつも帰りの乗り物の中で泣いていた。新幹線の中だったときもあるし、関空に向かう「はるか」の中でも止まらず、飛行機の中でも涙が出ていた年もある。私にも、たがいにも、いつまでも日本語で話しながら。岡山弁や、祖父独特の言い回しまでも、語彙として使いこなしながら。

でも、二人とも、おもしろいように、機内で一回眠ってしまってから起きると、いつも言葉が変わった。英語で、互いにベラベラ話しだす。そして、さっきまで泣いて懐かしんでいた、おじいちゃんおばあちゃん、いとこや、近所で遊んだ子供らだったりの名前のかわりに、自分たちがこれから戻る町の遊び相手の名前が出る。子供らの目がさめるのは、たいてい飛行機が、日付変更線を越えるあたりだった。

上の子が、米国で小学校を卒業した年も、子供を連れて実家で夏休みの何週間かを過ごした。岡山を発った日に、上の子は私に言った。おじいちゃん、おばあちゃんやいとことかは別にして、私には、日本語を話さないと。それも英語で。岡山駅を離れて、まだ姫路にも着かない頃に、新幹線の中で。私は、ただびっくりした。

なんで、英語で話すの、おかあさんに。なんで、そんなこと言うの。うろたえる私に、彼は、吐き捨てる、というのではなく、どうでもいいことのように、つけたす。
「なんで、ぼくがママに日本語で話さないといけないの?」
         
     *     *     *

上の子を授かったとき、私は大学院生で、あとは論文を残すだけだった。全部とにかく書き上げて、推敲はあとから、付け足すところはあとから、と思いながら、出産をすませた。卒業したのは、彼が1才半の時だった。私は、担当教授の助手の仕事で、いくばくかのお金ももらいながら、でも、教室に出向いて教えたりする仕事でなかったので、彼の世話はほとんど私がした。卒業してからも、パートの仕事しかせず、2人目ができる前後の1年半は、まったくの専業主婦の立場も経験した。

日本で、ベビーシッターというものになじみがなかった私もだが、連れ合いも、ベビーシッターなり誰なり、赤ん坊を他人に見てもらうということに抵抗があった。それこそ、母なり連れ合いの方の誰かなりが、手伝いにきてくれれば、助かったのだろう。まわりで、仕事を続けている人たちの多くは、自分が家をあけなければいけない、とか、仕事がたてこんだ時に、頼っている家族のだれかれがいた。

私は、誰かにめんどうを見るのを手伝ってもらうことは考えてもいなかったが、子どもが日本語にふれる機会はつくってやりたかった。同じような幼な子を持つ、日本から来ているお母さんたちをさがしあて、その人たちの何人とも、つきあわせてもらい、助けてもらった。私は、子どもに日本語を、私が使うように母国語として、そうならなくても、せめて自分の使える言語として持っていてほしかった。
  

連れ合いと私は、子どもの親になり、お互いをパパママと呼ぶようになった。一心同体とも思うほどだったのに、まったく別の心と体になった。父親と母親は違う。性別でなく、私たちの役割が、私たちを分けた。私がいつからか仕事を本格的に再開したとはいえ、長い間、彼が大黒柱で、外のことをまかない、私がウチの人だった。子供ができたから。子供をあずけてまで、二人でキャリアをとは、どちらにも思えなかったから。それでもいいと思ったから。

時勢にも影響を受けた。上の子がお腹にいた時に見た、9・11のニュース。その知らせに動揺する、米国の誰もかれも。そして、色々なことへの、社会をあげての急激な価値観のシフト。テロ事件で、出生率は下がるのだろうと思っていたのに、かえって増加したとも聞いた。

私たちのは、どちらかのキャリアのために、片方がサポートにという関係ではない。少なくとも私はそう信じたい。私たちは、いつもチーム決定をしてきた。結局は、今までの、伝統的な男女別の役割とも、することも、なにも違わないのだが。

私は、母親の役をすることで、手に入らなかったことや、あきらめたこともある。熱がある子供を、見て見ぬふりをして、臨時雇いの仕事に出かけたことがある。その時は、連れ合いの仕事の都合もあり、すぐ電話で呼び戻され、仕事を半分以上切り上げて帰宅した。苦く思い出すこともたくさんあったし、自分の怒鳴り声や泣き声で、夜に目を覚ますことも、一回とは言わずあった。

それでも、もちろん、母親の役の私には、その役の人にだけが楽しめる、光景も気持ちもほうびもあった。私は、結婚もだが、子供を持つことは、誰もが経験すべきだとは思っていない。どこかで聞いた表現なのだが、子供はいても地獄いなくても地獄くらいに思っている。それでも、子どもを持ったことを後悔したことは、正直一度もない。私は、自分のことしか本気で考えられない人間だったので、人の心を持たせてくれたとも思っている。同時に、彼らを自分より大切に思うこともまた、自己愛の延長だという気もしている。


私は、しあわせな子供時代を送りはしたが、結婚に憧れなかった。女性が結婚を選ぶ利点を感じなかった。それは、暴君とは言わないが、ザ・昭和の父のせいなのだが、私は、自分の母の特性すべてに疎ましさも持つようになった。一家の柱でなくて。自分のことは後回しで。人のことだけを優先して。がまんづよくて。無理してでも、家族を明るくするような言動やふるまいをして。つらかったはずの頃のことを口にしないのに、人の話は、よく聞いてあげて。

でも、母親の役をとった私は、だんだんと母と同じような生活をしていることに気づいた。

そのうち、上の子が思春期にはいり、追うように下の子も、私にもほかの大人にも、たいしてコミュニケーションをとらなくなった。私は、最初は腹がたっていたが、いつしか、その腹をくくって、言葉でないコミュニケーションをしようと決めた。好きだが大ざっぱにしていた料理に少し時間をかけるとか、殺風景な家の中に、子どもの写真とか花を飾るとか、いわゆる「ていねいな暮らし」をこころがけた。

言葉で影響を受けることを拒否している子供らには、こうして、あとから思い出せるにおいや、味や、雰囲気や、見えるもの、見えないもので、接していくしかない。そして、子どもらが、それでも、なにかの拍子に、私に向かって話し始めたら、私は反対も判断もせず、ただ、うんうん、といつまでも聞いてやった。

それは、私の母が、思春期の難しい年頃の兄や私に、そうしてくれたように。後に大人になった私が、そういうことでメッセージを送り続けた母を、いいとか悪いとか簡単に言わずに、聞く耳を持っていた母を、とてもありがたく思ったように。

私は、いつのまにか、心根の違いはあるが、母のような人になっていた。そして、それをうれしく思ってもいる自分に気づく。


     *     *     *


上の子は思春期を抜けたかという気がする頃から、子供の時の性質はどこへと思うほど、変わった。社交的で話し好きで、人前に立ったり話したりすることを、楽しむような人になった。そのたびにまさかと思うようなことを、いくつも始めた。ヨットのインストラクターの資格を取りに、泊まりがけで友達と行ってしまったり、ミュージカルの舞台に立ち、親の知らない堂々とした態度と響く声で、観客を感嘆させ、スポーツはできないはずだったのに、中距離走のチームで重用された。頭も回り、気の強い、私もあこがれるようなかっこいい女の子ともつきあった。本人も、ほんの数年前の自分の様子を、恥ずかしがるでもなく、冗談にしている。自分のことをからかわれても、ーーたとえば身長とか英語が母国語でない母とかーー、特に気にもしないような、鷹揚さも見せる。

6年前の新幹線の中で、日本語話さない宣言をした彼は、この夏、撤回宣言をした。それからは、日常会話以上のことは、使える語彙が少なすぎて、ためらいながらしか話せないことも多いのに、ずっと私に、なにもかも、日本語だけで話してくる。もうすぐ家を出るのに。何週間も私や父親に会わない生活をしたあとでなら、また私たちと短い旅行くらいはする気になるかも、と言う彼が。

きっと、この子は、自分で思うより、さみしいのだろうと、私は思っている。自分がおとなになっていることが。私たちを離れていくことが。この子の父親も、それがさみしくてたまらない。そして、自分ではそう思っていないつもりの、母親の私も。

週明けに、上の子が家を出たあと、きっと私は隠れて泣くのだろうと思う。私が家を出て行くと考えただけで、いつかの母がそうしたように。国外にまで出てしまった私を、毎回見送るたびに、胸がつぶれるような思いをしているだろう母のように。

     
Goodbye Baby.  

私が別れをつげているのはだれなんだろう。
私を親にしてくれた、赤ん坊だったひとに。
そして
そのひとのおかげで、やっとおとなになれた
長いことガキだった自分に。


______
あとづけ (余談)

書き上げてみると、書こうと思っていた子どものことより、自分のことになっていました。「やすこ母になる」とでも記事名にしたいような。

タイトルとして借りたのは、藤井風さんの「Goodbye Baby / さよならべいべ」。
この歌は、私には、地方の片田舎(岡山)から東京へ出て行く時の藤井さんの気持ちに聞こえます。(と思っていたら、実際そうなんだそうです。そばりんごさんという方の記事で知りました。)

藤井風「さよならべいべ」の歌詞
       
来んと思った 時はすぐに来た
時間てこんな 冷たかったかな        
余裕のない 愛の言葉
空気の読めぬ 恋の歌
どうかしそうやこの胸は
なんとかしてや               

さよならがあんたに捧ぐ愛の言葉
わしかてずっと一緒におりたかったわ
別れはみんないつか通る道じゃんか
だから涙は見せずに さよならべいべ     

意地はっても すぐに崩れるし
見栄はっても すぐに剥がれるし       
飾りのない 愛の言葉
カッコの悪い 恋の歌
あんたに聴かすだけだから
それでいいでしょ              

さよならがあんたに捧ぐ愛の言葉
わしかてずっと一緒におりたかったわ
別れはみんないつか通る道じゃんか
だから涙は見せずに さよならべいべ     

煩わしいから 何にも包まずにおくわ
紛らわしいから まっすぐな言葉にするわ
気恥ずかしいから 置き手紙だけで許してな
もう行く時間か 最後までカッコ悪いわしじゃったな                    

新しい扉を叩き割った
前に進むことしか出来ん道じゃから
泣いとる時間もないようになるけどな 今
誰も見とらんから少しくらいええかな     

さよならがあんたに捧ぐ愛の言葉
わしかてずっと一緒におりたかったわ
別れはみんないつか通る道じゃんか
だから涙は見せずに さよならべいべ     

だから笑って手を振る さよならべいべ

私が長々と、エッセイを書く必要もなかったかという気さえ。
離れることになる誰か大切な人を思う気持ち。新しいことや所に飛びこむ決意。誰をもの気持ちの代弁者のような。
これからも応援してます。
23才の藤井風さんも、18才のうちの子も。
離れたとこで。
応援する私がその年齢のときよりも、ずっとおとなな、あなたたちがまぶしい。
がんばられえな、あんたら。

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