◇不確かな約束◇第7章 下
東京行きが決まってから、カナさんは、会社でも、どこにいるのかわからなかった。もう同じ職場にいると思わない方がいいか。空いてる席に、誰か別の人が座るのかと思うと、寂しい気がした。
いやいや、来年新卒で、すげー可愛い子が入ってくるかも。カナはいいよ。あいつはイモ。オバハン。
カナさんは、家を抜けられないと電話をくれた。思いがけない転勤に、仕事を応援していた家族も、やはり娘と過ごす時間を望んでいる。
はいはい、俺は、二の次ね。
なかなか俺には順番が来ない。最後の週末の土曜の午後に、ようやく会う約束を取りつける。車でちょっと寄るという彼女に、俺が行くから、と言って、返事も聞かずに切った。LINEは無視し、自宅の前で彼女を拾った。
久しぶりに会う彼女を見たとたん、体がカーッと火照った。話す声が耳に入らない。どこ行くの、と言う声に答えもせず、俺は市外のラブホテルに乗り入れた。ホテルしまなみ。だっせえ名前。
カナさんは何も言わなくなった。先に部屋に入ると、俺は彼女を、引きずりこむように中に入れた。待ってよ、まだ、と言いかけた口をふさぐ。
待てない。下半身は硬くなってる。なんで、こんなの着てくるんだよ。ボタンとか、なしだろ。気をきかせろよ。俺がやりたいのわかってんのに。脱げよ。やらせろよ。
彼女の首筋や顔を激しくねぶり回しながら、うまく外れないベルトがもどかしい。自分がどんな風に見えてるのか、全然わからない。どうでもいい。ただ入れたい。俺の女なんだから。あなたが、言ったんじゃないか、あの日。抱き合おうって。
「やめてよ。」女の声。「せめて、ベッドでさせてよ。」
ただの咆哮か、わけのわからない音だけ出しながら、俺は彼女の体を貪った。
コトを終えてというか、俺の欲望を解消した後、顔をまともに見る気になれなかった。シャワーを浴びに行き、タオルだけ巻いて出てくる。カナさんはベッドの上に横たわったままだ。俺は足元の方に腰かける。
「俺が、ひどくした?」
「ううん。うん。」
カナさんは、横たわったまま、静かに言った。
「私の転勤のせいだよね。」
俺はうつ向く。彼女は、低い声で話し始めた。
私は、別に出世したいとか、人より偉くなりたいとか思ったりしたことはない。でも、2、3ヶ月前に、大学の同級生と会ったん。その子と話して、ちょっと思うことがあった。
経済専攻で、銀行に就職した友達。意識も高くて、出世したいと息巻くような子。外資系でも行けばいいような性格。はっきりモノが言えて。家がそういう家だったんよ。きょうだいも女ばっかで、一番上で。
職場で、同期の人たちも海外駐在や研修に送られ始めたんだって。でも、このご時世でも、選ばれるのは男ばっかり。どう見ても、彼女の方が適任だろうと思うような人まで。
その子は上司に、自分も行きたいと申し出たん。そしたら、結婚しないと約束するなら考えてやるって。
カナさんは、間をおく。もったいぶるのが、ちょいウザい。
「話してくれた時に、その子が、あんな勝ち気なの知らんわゆうくらいの子が、泣いたん。悔しいって。」
ため息をついて、続ける。
「わかんないよね、シュウくんには。男の人には。」
それに東京の人だし、と続くんだろう?また、そんなふうに俺を押しやる。じゃ、俺もこうしか返せない。
「わかんねえよ。そうだよ、男だからな、俺は。」
彼女の顔が少しゆがんだ気がした。
俺は、うらやましいんだ。あなたが東京行くの。4、5年で帰されて、課長か。部長か。ゆくゆくの幹部候補か。そこまで行かないか、女だし。結婚するだろうし、そのうち。東京もんの、男の俺の出番だろう、そこは。
誰に言うともなしに、カナさんが呟いた。
「親戚が縁談持ち込んでくる。カナちゃんは4年制大学行ったけえ、トウがたつのが早かろうとか言って。26くらいでもう、いき遅れるって心配される。」
「いつの時代?」
と、俺は笑って返す。彼女の思いつめたような顔が目に入る。涙が浮かんでいる。
「広島じゃもん。東京じゃないもん。女の子が女の子じゃったら、優しい所なんよ、ここは。」
涙をためる彼女に腕をのばすと、振り払うように手を動かされた。大丈夫と口を動かしているが、声にはならない。
「俺がついてる。」と言う。「カナ。」
さんをつける前に、やめた。クッと音がした。やっと声を出してくれた。彼女が言う。
「なに、それ?」
彼女と俺は、それからもう、お互いの体にふれなかった。
東京に出向く前日、カナさんは、職場に挨拶だけしに来たらしいが、会えなかった。部長が、自分も明日は一緒に東京支社に行くのでと、新幹線の時間を教えてくれた。
夜にも、やっぱり会えなかった。LINEの返事もない。電話の着信記録が一回だけ。伝言はない。俺からは、かけなかった。
あれで、終わったんかな、俺ら。あれ、俺、広島弁出た、今?
長続きせんのん、私、と前に笑って言ってた。これは、あなたには、長い関係ですか。今度は、あなたの方が東京に出て行って、俺は、広島の田舎に満足する男、で切り捨てられるんですか。
俺は切られてばっかだ。高校の時から。
次の日の朝、広島駅に行った。新幹線の上りのホームに、カナさんは部長と一緒に立っていた。
「おお、武本、来たんか。」部長が言う。
「はい。きのう挨拶できなかったんで。」
少しこわばった笑顔で会釈するカナさんに、俺もできる限りの笑顔で返す。礼を口にする。
「お世話になりました。佐伯さんのおかげで、俺もなんとか半人前くらいにはなりました。これからもがんばります。佐伯さんも、新しい所でも活躍してください。」
広島始発の新幹線は、ホームに入るのが早い。指定席だし、あわてて乗りこまなくてもいいが、部長は、ワシ先に入っとくで、と言って、中に消えた。
カナさんは、私もそろそろ、とつぶやく。中で部長が、こちらに手をふっている。彼女は手を差し出した。
「武本くんも、元気でね。またね。」
完全に佐伯さんだった。先輩だった。
1年目にへこみまくってた俺を、いちばん気遣ってくれた人。大半の人が、広島弁と、なまりのある標準語で会話する職場。よそもん感を持つ俺が、上司から飲みに誘われると、よくついて来た。その時は、何にも思わなかった。俺に気があるのかも、くらい。
でも、あれも気遣いだった。女で、地元育ちの自分ができること。潤滑油になること。体育会系以上に、先輩だった。
女がどうとか声高には言わない。でも、「女は男と違うし」と言う時、ちょっとあきらめたような、つらそうな感じがする時があった。覚悟をしてた。
仕事の中身も、広島のこともほとんど知らない俺を、からかい、色々教えてくれた。武本くんが知らんから、と言って、職場の誰彼をよく巻き込んで。
静かにスピードを上げ、新幹線は消えていった。ホームから駅の構内に降りると、人で溢れていた。
広島駅って大きかったんだ。新幹線の改札だって、一つじゃない。3年近く住んでて、びっくりするか?先週、香川出張の時、来たばっかじゃん。
広島だけだって何万人も女はいる。カナさんが言ってた。
なんでえ、あんな堅物。ろくにセックスもさせてくれなくて。家住まいの女で。今日から、俺はやりまくってやる。
わざと自分にそう言ったら、今まで寝た、つき合った女の顔が頭に浮かんだ。サチも、ユキも。あいつらはみんな、俺をかまってくれてたんだ。大人にしてくれてたんだ。
青春の門かよ。
笑おうとしたのに、涙が出てきた。子供だった自分。もしかしたら、俺がみんなを、お姉さんの立場にしていたのかも。
どの顔をも思い浮かべながら、みんなにすまなく思った。あまちゃんでごめん。自分で精一杯でごめん。わかってあげられなくてごめん。離れさせてごめん。
カナさん。
最後まで、呼び捨てにできなかった。
俺は、優しい女の先輩のあの人に、甘えた。俺がダメなら、なんとかしてくれるような気がしてた。最初っから。いつかはそうでなくなるかと思ったけど、最後まで、あまちゃんから卒業できなかった。それでいて、俺は男だというプライドだけはあって。
大人になりたい、俺。
男になるより前に、俺は大人になりたい。次に会う時までには。会う時があると信じて。
私、違和感あることちょっとでもあったら、もうダメなん。
いつかの言葉を思い出す。俺にとって、まだサエキさんだった時。
今度いつ彼女に会うんだろう。どんな顔をしてるんだろう、俺たち、その時。若気のいたりとか思ってるのかな。いつかしてくれたような、昔のオトコの話にされるのかな、俺。
縁があるなら。俺らの関係が本物なら。何があっても、また結ばれるかも、ぐじゃぐじゃになった俺らの糸。あれ、こんなこと、誰かが前に俺に言ってなかったっけ。
カナさん、次に会った時、俺はあなたを何と呼ぶのだろう。今度会った時、俺はあなたの何なのだろう。でも、俺は今だけ見てゆきます。今日だけ。明日だけ。何年後なんて考えない。考えられないから。考えてもどうしようもないから。
遅れると電話はしておいたが、会社までは、バスでなくタクシーにした。時間が惜しい。どこに行きなさるん、と聞かれ、行き先を告げる。それに、、。
いいよな、ここなら。ちょっとくらい泣いても。
俺をひとり乗せたタクシーは、駅を離れ、走り始める。目指す方角に広がるのは、にじんで見える海。いつもどおり穏やかにさざめく波間に、朝の光がきらめいている。
* * *
第8章に続く。