禁じられた遊び
わたしが禁じられたのは、書くこと。
そのことを、わたしは、noteを始めたきっかけを書いた記事の中で、ふれた。
私は読み書きだけは早熟で、4才でノートにお話を書いていた。さるとおひめさま、だとか、たわいもない話で、さし絵やマンガもかいた。両親は、とりたてて、早熟な私をほめそやすことはなく、逆に、母は私が「書く」ことを禁じた。書かないように言われたことがあるのは、小学校入学前から卒業までで、私が覚えているかぎり、3回ある。
子どものわたしが禁じられた遊び。そのことを書いてみる。
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小学校入学を前に、私は母に、自分で字は書かないようにと言われた。
私は母の言葉に従った。自分で覚えているのはここまでだが、成人してから聞いた父の話では、私は不満に思ってはいたようだ。
事情を知らない父が、幼い私に、この頃お話は書かんのか、と問いかけたら、涙をあふれさせたそうだ。母に、書いてはいけないと言われた、と。
母の禁止は、色々な理由があったと思うが、一番の理由は「時代」だろう。その頃は、ひらがななどの字は、学校で教えてもらうまで習わないのが望ましい、という考えが出回っていた。幼児雑誌の、保護者向け(その当時は、たぶん「お母様へ」とかではなかったかと思う)のページにも書いてあった。たぶん、小学校からも推奨されていたのだろうと思う。
米国でも、今でこそ、英語以外の言語習得が推奨されているが、ある時期までは、英語以外の言葉を話すのは、子供の英語習得の弊害になるという意見がまかり通っていた。時代によって、世論だけでなく、専門家と言われる人たちの意見も違う。
母は、読み書きに関しては早熟な私を、先生たちが推奨する状態で学校に送りたかったのだと思う。
小学校4年生の時は、家族新聞。家族のことを色々、あることないこと書いていた。机で新聞を作っている私を、のぞきこんだ母が、そんなものを作るなと言った。母は、穏やかな人で、怒鳴るというのではなかったが、顔は、いつになく険しい。私はすぐにやめ、その紙も捨てた。
そして、6年生の時。私は、文芸クラブで、脚本や詩や物語を書いた。2学期に書いたお話、「のろわれた魂」。ノート40ページ近く。
クラブを担当する年配の国語の先生が書いてくれた感想は、「本当にあなたが書いたんですか。そう疑ってしまうくらい、よく書けていました。」と始まる。私が書いた、大人が使うような言い回しに感心していた。
でも、話の内容は、先生には抵抗があったようで、最後に、「これが本当に小学6年生が考えていることなら、先生は今の子供たちが、わからなくなりました。」と書かれていた。
主人公は、連続殺人を犯す小学6年女子。彼女は、結局捕まらない。話は、彼女の母と父の結婚式で始まる。会社勤めをやめ、専業主婦になる母。その母も、同様に、人を殺していた。多くはないが、エログロとでも呼びたくなる描写も。
この作品の根にあるのは、まあ、性のめばえ、性差への葛藤、その時はなかった言葉だが、フェミニズム意識の目覚め、といったところか。
このお話について、母は何も言わなかった。私の作文なり文芸クラブのノートなり、いつも見ているはずなのに。
2学期の終わりの、ある夕方、母とふたりで歩いて家に帰っていた。私は、無邪気に、次のお話のアイデアを話す。
「次のは、意地悪な継母が出てきて、、、。」
母が、いつものおだやかな調子で言う。
「やすこに、そんなお話書いてほしゅうねえわあ。」
なんで、と、母の横顔に問う。
「やすこがそんなお話を書いたら、うちがそういう家なんかと思われるじゃろ。」
そうかなあ。そうなん?そう思うん?私は声にはしなかった。
「やすこは、お話は書かんほうが、ええんじゃねえかなあ。」
薄暗くなるなか、ぼやけてくる母の後ろ姿。黙ったまま、家に向かう。それから、私は、お話をまったく書かなかった。
小学生の時の思い出は、母が恐れていたものを示してくれる。
自分の子供が、恥ずかしいふるまいをすること。
たとえ家族のなかだけの「家族新聞」であろうが、文芸クラブの創作文だろうが、「ほかの人」の目にふれたら、何か思われ、きめつけられてしまう。自分の家のことを、笑われる。批判的に思われる。変なことをする子供がいる家、と。それを心配してしまう。
ひとことで言うと、世間体。
自分も親になって、そういう気持ちはわからないではない。
書いたものは、人の目にふれる。それも、学校の作文だとか、課題図書の読書感想文とか、まちがいのないヤツ、でなくて、何がとびだすやらわからない、創作文。
それでも、書くこと自体は、自由にさせてくれてもよかったのにとは思う。だが、書いたものは、燃やしたりしない限り、残るものだ。
きちんと芽をつぶした母は、自分の恐れにしっかり対処していた。今、その部分だけは、冗談でなく評価している。同性としては、母から、嫌だったのに黙っていた、と後で聞くより、うれしい気がする。
もし、今のような時代に子育てをしていたら、母は6年生の娘の創作文を、ショックは感じながらも、自慢に思ってくれていたかもしれない。(今なら、スクールカウンセラーとか出てきたかもしれないが。)
時代が違っていたら、というのなら、母自身が、ものを書いていたかもしれない、とも思う。彼女自身が、気の利く文章がさっと書け、筆跡が美しい、どう見ても文芸タイプだったのだから。私の書くことへの強い興味も、きっと母からきているんじゃないかと思えてしかたがない。
6年生の時の創作、「のろわれた魂」では、母と娘が、同じ運命をたどってしまう。その話と同じようだ。つながっているのね、きっと。母と私は。
一方で、このことを書いてしまい、今この note という場所で、人の目にふれることがわかっていて投稿することは、ある意味、母に仕返ししているみたいだな、と思う。そんなつもりはないのだけれど。
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私は書くことにトラウマがある、と言う気はない。もし、そんなものがあったとしても、今の私は、自分の責任だと言い切れる。
私が書かなくなったのも、詩は書き始めたが、創作文には戻らなかったのも、母のせいではない。
実は、文芸クラブのお話のことはずっと忘れていて、思い出したのは、大学院生の時だった。しばらく、せつない気持ちになった。
自分のまわりの、育った背景が違う人たちが、子供の時したことを、親にほめられたり、もっとするように環境を整えてもらったりした、という話を聞くと、なんか自分は損していたような気がした。
でも、その時は、だから。わかってる、大学院まで行っといて、なにを、ぜいたくな。
近年よく聞く、羽を折る、という言い方。私にとっては、興味のあることの芽吹きを、伸ばすのを手伝ってはもらえなかったことなのだろう。でも、私の折られた羽が、お話づくり程度だとしたら、それは幸福なことだと思う。
私は、自分の矮小な思い出で、羽を折らないことの大切さを体感した気にさえ、なっている。
私は恵まれた家庭環境で育った。私があたりまえと思って育ったもろもろのことを、持たない人たちは多い。私以上に、性差や貧富に負の影響を受け、羽を折られてきた人たち。羽をのばして飛ぶことなど、考えさせてももらえない人たち。
私の羽を、(まだ、あればだが、)今、折ろうとする人が出ても、それは屁ともない。でも、まだそんなふうに言えない、あらゆる環境の若いひとたちを思うと、胸が痛くなる。
そして、こんなふうに思える感受性は、母が私に書くことを禁じたことに、関係あるのだとしたら。
書くなと言われたこと。そして、書かなかったこと。
私にとって、それらもまた、恵まれた経験だったのだろうと思う。