「自分にとって害のある存在とどう対峙するか」メモ-DJ sodaさんの事件から-

JDsoda さんのいっけんから考えたことメモ。
スペースで自分にとって害のある存在とどう対峙するか話し合う機会があるため、その時のためにまとめておく。 
記事をちらっと見ただけで書いており、基本的にチラ裏です。

自分と異なる存在(の中でも、自分に害となる存在)とどう付き合っていくか

私の考えでは方法は3つある

1「共生」
2「殺戮」
3「闘争」

1「共生」とは

相手の存在に寛容になり、存在は認めないが、許容するという方法。

自分の身近な例をあげると、私の隣人は、特になにもしなくても、私に怒鳴ってくることがある。
それに対して、自分はこの方法を取っている。話しかけられても無視を通す。相手にやり返しはしないが、徹底的に関わらない。

「アイスクリームに寛容とは言わない」っていうツイートも引用

2「殺戮」とは

相手の存在を全く認めず、生存も許さない。抹消することで、解決する方法。

3「闘争」とは

害をなす存在を抹消するのが不可能かつ、相手の存在も許容できない場合。理念を掲げ続けながら、自分の理想に近づくために現実的に行動し続けることになる。

私と隣人の例で挙げれば、
私は、喫煙者を許せない。世界から喫煙者をなくすことが理想。でもそれは不可能なので、少しでもタバコを吸う人を減らすために、子供にタバコを吸うことはネガティブだと教育をする。

以上の前提を踏まえたうえで、以下で、このsoda事件のケースについての自分の考えをまとめてみる。

soda事件に対する自分の考え

一番共感したのは、この意見

まとめると、
・そもそも触るのは言語道断

・服装と性的興奮は関係がある

+自分の意見として

・自衛することは必要

(理想を掲げるのと、自衛することは矛盾しない)

1.格好により性的興奮を覚えるのは因果関係があると認める。

2.性的興奮を覚えたので、相手の合意を得ずに体を触るという行為は反対。

3.服装は自己表現で、それに性的興奮は関係ないというsodaさんの立場に対しても賛成しない。

1と2の理由は言語化できていないため、要追記。

3の理由は、自分は、sodaさんがその格好をすることに必然性はないが、多少リスクはあっても自己表現をしたいからやっている。その上で、非は100%相手にあり、500万人のファンのいるインフルエンサーという立場で、ライブ会場という非日常の場所で、対処をする必要はない、と現実的な行動を検討していないように見える。

これは、相手の存在を認めないし存在も許容しない、つまり、2「殺戮」の立場ではないだろうか。
これでは相手を抹消するまで終わらないことになってしまう。

理想として、性暴力を許さないと発信し続けることは意味があると考えるが、現実的に考えると、sodaさん自身が一番被害を被る形になってしまうのではないだろうか。

そのため、現実的には、性暴力なしに自己表現をできる世界を目指す、3「闘争」という方法を選択し、自衛も含めて、害をなす存在がいたとしても、自分や、その仲間が我慢しなくても良い考え続けるしかないのかなと考えた。





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