汚部屋と、ヤツと、片付けが苦手な私
目の前にいる、ヤツ。北国で18年過ごしてきて、実際には見たことがなかった。テレビで見た、それなりに大きくて動きが速くて皆が気持ち悪がる、という前情報だけはある。
大学進学で地元を離れ一人暮らしをはじめた。実家にいた頃から、帰宅すると身につけていたあらゆるものを床に置きながらどんどん前進していく癖がある。私の前にモノはない。私の後ろにモノがある。この手の人間が作り上げる部屋を、世間では汚部屋と言うらしい。
言い訳を聞いて欲しい。収納をしないというだけであって、置く場所はなんとなく決まっているのだ。だからどこに何があるかは、目を閉じていても言い当てる自信がある。
そしてもう一つ。片付けのペースだって、一応私なりにある。一通り散らかると片付け、また散らかるまでは放置しておく、というサイクルがあった。部屋が片付いていないということは、そういう時期ということなのだ。
この日は片付ける日だった。まず紙袋をふたつ用意し、一つ一つ手に取っては、すぐ使うもの、使わないものに分類をはじめた。この時何を思っているかというと、私もやれば出来るじゃん、という全能感でいっぱいになっている。我ながらおめでたい頭である。
おや。膝元のチラシに目を落とす。右下から、2つの線がダウジングマシンのようにふらふらと動いているのを見つける。はて。こんな不随意運動をするモノがうちにあっただろうか、いや、ない。
チラシをめくると、そこに、それなりに大きくて、見たことがない昆虫がいた。ふらふらと触覚だけ動かし、つやっとしてそこにじっとしている。こいつはたぶん、動いたら速い。皆から気持ち悪がられている、ヤツだ。
体は動揺していたものの、思考は至って冷静だった。ターゲットが動かないことを確認しながら、頭の中に検索ワードを並べる。
ゴキブリ 部屋 どうする
右手で携帯を探る。あれ。頭の中の検索ワードが変わる。
携帯 ない どうする
視線を右手の方にうつす。ない。ないぞ。携帯。
どこに物があるのかだいたいはわかる。ただ、携帯は家の中でもずっと手に持っているので、気を抜くと変な場所に置いてあったりする。洗濯機の上、カラーボックスの中、枕の下、洗面台のケープの隣にスプレーのような顔をして鎮座していることもある。まあ、私が置いているのだが。
そういえばさっき、トイレに行ったんだ。その時に置き忘れたのかもしれない。
音を立てないよう、目はヤツを捉えながら、ユニットバスに向かう。
個室に入ると、携帯はすぐに見つかった。タオル掛けのバーと壁によって絶妙なバランスをとっていた。なんて危ない置き方。誰だこんなことをするやつは。
その場でさっき打ちそびれた検索ワードを入力し、検索結果を吟味する。
殺虫スプレーで弱らせる。そんなものうちにはない。ゴミ箱を被せて動きを封じる。いいかも。あぁ、でも外から姿が確認できないしいつまでそうしていればいいんだろう。私は掃除機で吸いました。距離を取りつつ確実に仕留めることができるじゃないか。これでいこう。
廊下のクローゼットに入れてあった掃除機を手に部屋に戻る。
いない。
ゆっくり部屋を見渡す。四方八方、360℃、もうヤツはどこにもいなかった。
ヤツが潜んでいる部屋を、それ以上片付ける気にはなれなかった。作業をしている間にいつ、どこから出てくるかわからないんだもの。
私は財布と携帯を手に部屋を出た。ドラッグストアに駆け込み、初めてブラックキャップと殺虫スプレーを買った。
すぐに帰宅しブラックキャップをあらゆる所に配置し、室内の移動の際には殺虫スプレーを携えた。武器を買ったことで私は気が大きくなり、部屋の片付けを再開した。
もう丸腰ではない。いつでも出てこい。
しかし、その日も、その後も、ヤツが姿を見せることはなかった。
蒸し暑かった風が冷たくなり、金木犀の香りを運んでくるようになった。私はすっかりヤツの存在を気にしていなかった。部屋でひとり、初めての大学生の夏休みの思い出に浸っていた。
気の合う友達が沢山できて、宅飲みをしたり、人狼で盛り上がったり、くだらない話を延々としたりしながら朝を迎えた。この時間がずっと続けばいいのに、と思った瞬間は数えきれない。本当に私の経験したことだったんだろうかと、床からふわふわと中身だけが浮いていきそうな心地だった。現実なのに現実味がない、夢見心地とはこのことか。
この日は、朝から片付ける日と決めていた。新学期を迎える前に、特別綺麗にしておこうと思ったのだ。モノが片付いたら、隅々まで掃除機をかけ、シンクと浴槽とガスコンロをピカピカに磨こう。
モノを収納し終え、掃除機に取り掛かる。テレビ台の裏のホコリを取ろうと、家具を動かす。あ。
ヤツだ。ブラックキャップの横でひっくり返っている。ツヤはホコリで陰っていた。ふらふらとしていた触覚はピクリともしなかった。
絶対に動かないとわかっていたので、何も恐れることはなかった。ティッシュ越しに鷲づかんで、部屋を出て1階に降り、アパートを囲う植え込みにそっと置いた。
もうこいつは自分を脅かすことがない、と分かると急に余裕が出てきた。私はこの嫌われ者の一生に思いを寄せていた。
思えば、あの日から1度も私の前に現れることはなかった。片付けた日も、友達とわいわい過ごしている時にも、もちろん一人でいつも通り散らかして過ごしていた時期も。意志などないだろう。しかしこんな風にテレビ台の裏で息を潜めて過ごし、息絶えていたんだと思うと、なかなか空気の読めるヤツであった。おかげさまで私は存在をすっかり忘れ、心置き無く今しかない夏休みを過ごすことができたのだ。
お前さんは、この部屋で、どんな夏だったかい。