明るい闇
「あなた、太陽みたいね」
小学4年の頃だったか、先生にそう言われた。
「明るく元気で沢山友達がいて、いつも笑顔で素敵」
先生はよく私を褒めてくれた。確かに先生の言う通り、それぐらいの頃の私はいつも誰かと一緒にいて毎日が幸せだった。
「ヒカリちゃん、あなたはいつまでもそのままでいてね」
先生は私の顔を見るとそう言ってほほ笑んだ。
けれど、先生の願いは叶わなかった。
中学に入っても私は何でも器用にこなせて成績も良かったし、小学校からの社交性は相変わらずで、入学して間もなくいわゆる「クラスの人気者」になった。男性たちからは「ものすごい輝きを放つ美人がいる」とアプローチも少なくなかった。
私は驕らなかった。誰かの人生と私の人生を競うつもりもなく、みんながハッピーならそれで良いと思っていた。
けれど中学に入って1年ほど経ったころ、その頃は何も気づいていなかったけれど、少しずつ、私と、私を取り巻く人たちの人生は変わり始めた。
「はい、お疲れ様~緊張した?まあ緊張するよね。入部審査の結果はまた追って連絡するね」
フミカは部活の体験に来た新入生を手を振って笑顔で見送った。まだ2年だったけれど、とりわけ能力の高かった私と仲の良い友人のフミカとナズナは吹奏楽部の未来を担う新入生の入部審査の審査員を担当させられていた。
新入生が全員練習室を後にするとフミカは「あ~~疲れた」と大きなため息をついた。
「今日の子、どうする?すごい伸びしろのある子だと思ったけど」
フミカもきっと賛成してくれると思っていたけれど、意外にも鼻を鳴らした。
「不合格よ」
「さんせーい」
とナズナもフミカの意見にナズナも片手を上げる。
「どうして?さっきまであんなに褒めてあげてたのに」
と私が尋ねると、
「だって美人だから。美人が多いと私が目立たなくなるでしょ?」
とフミカは吐き捨てた。
「そうそう、どうせああいう奴は入っても苛められるし。あの子のことを思って、不合格ってことで」
ナズナも楽器を拭きながらフミカに同調して口角を上げた。
私は2人の発言が信じられずに言葉を失った。
出会った頃のフミカやナズナは人を馬鹿にしたり妬んだりしない性格だった。だから友達になった。
それなのに私と付き合いが長くなるにつれて、まるで人が変わったかのように腹黒くて、自己中心的で、暇さえあれば他人の悪口ばかりを言うようになった。
けれどこういった多感な年頃に性格が変わってしまうことはよくあることだ。だから私は確かに2人の変化にとても悲しんだけれど、それ以上2人の変化について追及するつもりはなく、徐々に2人から距離を置くことで解決とした。
それから2か月ほど経った頃、同じように仲の良かった友達の1人と徐々にそりが合わなくなった。言葉を選ばずに言うなら、その友達も性格が悪くなったからだ。
どうして私の周りばかり。
そうしてひどく傷ついたのは覚えているけれど、その頃はまだ私のことを好きでいてくれる人たちは他にも沢山いて、変わってしまった友人と距離を置けば、これまでとさして変わらない幸せな日々を送ることができた。
けれど、同じ現象は止まらなかった。もはや偶然とは呼べないぐらいに私の近くにいる人たちは変わっていった。変わってしまった友人たちの間でも亀裂が走り、イジメを目にするようにもなった。
私が幸せになればなるほど、私の周りの人たちは不幸になっていくような気がした。私の幸福という強い光が、周りの不幸という闇をより色濃くしているようだった。
誰も原因は分からない。だから公に私を名指しで非難する人はいなかったけれど、子どもというのは妙に鋭い生き物だ。「何かがおかしい」とみんなが勘づき始めていた。
「カミエ、ちょっと職員室からプリント運ぶの手伝ってくれない?」
「ごめん、ちょっと今忙しくて……」
と全く忙しくなさそうなカミエは言った。
「ユズキ、昨日の『インテリジェンス・ケア』見た?」
「見…てない」
と私が教室に来る前に他の友達と『インテリジェンス・ケア』の話で盛り上がっていたユズキは言った。
そうして皆は顔に分厚い仮面を被って、言葉を飲み込んで、距離を取った。
それは正解だった。そのように私に対して本心を曝け出すことを辞めた友人たちは今までと変わらず楽しい学生生活を送っていて、一方で私と仲良くなろうと裸の心をむき出しにして接してくれた友人たちはこぞって不幸になっていった。
なら私から距離を取ればいい。私が不幸になればいい。そうすれば、みんなは幸せでいられる。
私はみんなが不幸になることよりも、私1人が不幸を背負うことを選んだ。仲良くしようと心を開いてくれる友達を突き放すのは心が痛んだが、そうする他になかった。
不幸で孤独になるのはこんなにも簡単なのかと拍子抜けした。
かつて「クラスの人気者」だった私が、教室の隅で空気のように誰にも触れられない存在になるのは時間が必要だと思っていたけれど、想像の何倍も早く私の願いは叶ってしまった。
もうかつての光輝く私はいない。常に心にはどす黒い雲がかかっていて、口角を上げることさえ苦手になっていた。
「これでいい」
日が沈みかかった放課後、私は向かいの校舎から聞こえてくるトランペットの音を少しだけ懐かしく思いながら、教室の隅で1人涙を流した。
「どうしたの?」
たまたま忘れ物を取りに帰ってきたヒカゲが涙を流す私を見て、心配そうに私の顔を覗き込んできた。
「何が?」
「泣いてるから」
「泣いてない」
私はシャツの袖で涙をさっと拭いた。
「泣いてたよね…?」
「泣いてないって言ってるでしょ」
「なんで強がるの?」
「強がってない。荷物取ったならさっさと出てって」
ヒカゲは私がみんなと距離を置いてわざと冷たくするようになってからも唯一関わりを持とうとしてくる実に面倒な男だった。
「泣いてた理由を教えてれたら出ていくよ」
「何様のつもり? そういえばあなたも地味で陰キャで口下手で、ロクに友達いないよね。私のことを同類だと思って憐れんでるの?気持ち悪い。あなたなんかと一緒にしないで」
私は言っていて自分で胸が苦しくなるくらいに最低な言葉を彼に浴びせた。
「どうして思ってもないのにそんなことを言うの?」
ヒカゲは私の最低な言葉に対して怒ることも失望することもしなかった。
「僕の知っているヒカリさんはそんなことを言う人じゃない」
そのヒカゲの態度がさらに私をヒートアップさせた。
「あなたみたいな人がいるからよ……!」
「?」
ヒカゲは首を傾げた。
「あなたみたいにどれだけ冷たくしても私に付きまとってくる邪魔者がいるから言ってるの!さっさと視界から消えろクソ野郎!」
私は大粒の涙を流しながら叫んだ。それから自分の言ったことに耐えられず鞄を抱えると、呆然とするヒカゲを横切って教室を出た。
「これでいい……これでいいんだ」
私は廊下を駆けながら自分に言い聞かせるように心の中で何度もそう呟いた。
神様は残酷だった。私の「これでいい」と思っていた認識は、全くこれで良くなかったようだった。
私が不幸で孤独になってからも、確かに周りが不幸になるスピードは減速したような気もするものの、クラスの雰囲気は重々しくなる一方で、イジメによって不登校になったクラスメイトや怪我をして部活を辞めるクラスメイトもまでもが現れた。
もしかしたら私の不思議な力とはなんら関係がなかったのかもしれないけれど、当時の私は私の周りで起こる不幸は全てが私のせいに思えてならなかった。
そして、ついに最悪の事態が起こった。
雨の日だった。数学の授業を受けていると、担任の先生が授業中にも関わらず息を切らして教室に駆け込んできた。クラスメイトは驚いて先生の方を見て、私も先生の方を見た。先生が見ていたのも私だった。
先生は私を手招きして廊下の隅に呼ぶと、少し躊躇った後、唇を震わせながら言った。
「あなたのお母さんが自殺したわ。今すぐ家に帰りなさい」
心のどこかでいつかこうなるんじゃないかと思っていた。
親は最も自分に近く、最も私に嘘偽りなく接して私を受け止めてくれる存在だったから。不幸にも即効性のものと遅効性のものがある。お母さんは目に見えて不幸になってはいなかったけれど、多分じわりじわりと徐々に内側から不幸に蝕まれていっていたのだろう。
死ぬしかない。そう思った。でも死ぬのは怖かった。だから何もできずに家に引きこもった。お父さんとは極力顔も合わさないようにした。
もっとも、お父さんはお母さんが亡くなってから私の不思議な力なんて関係なく、アルコールに溺れてとっくにこれ以上ないぐらい不幸な状態になっていたけれど。
家から出ない生活は退屈だった。これが生きていると言えるのだろうか?やっぱり死んでしまった方が良いのではないか?と思うこともあったし、人並みの生活を取り戻したくて、昔の友達が沢山いた頃の自分を思い出してとてつもなく人恋しくなり外に出たくなることもあった。
退屈しのぎに本を読んでいるとインターフォンが鳴った。恐る恐るモニターを覗くと、私は目を丸くした。
モニターに映っていたのはヒカゲだった。
「帰って」
ヒカゲが言葉を発する前にそう断ってモニターの電源を切った。
しばらくしてから玄関に向かってドアを開けると「また話そう」とメッセージが添えられたコンビニのおにぎりが玄関先に置かれていた。
私は外に出ておにぎりを拾うと、そのまま手を付けず自分の部屋のゴミ箱に捨てた。
ヒカゲは本当にしつこい男だった。
それから毎日のように家に来ては私がどれだけ冷たく突き放しても置き土産を残していった。毎日拾ってはゴミ箱に捨てるだけだったが、喜んで受け取っていると勘違いされる気がして拾うことさえやめた。
けれど、玄関先に自分の持ってきた物が放置されているのを見ても、ヒカゲはその上に新たに持ってきた物を重ねるだけだった。
「あなた、一体何がしたいの?」
ある日たまらなくなって、私はモニター越しに問いかけた。
「また昔みたいにヒカリさんと楽しく話したいだけだよ」
「毎日毎日人の玄関先にゴミを増やしていくのが、楽しく話したい人のやること?」
「ごめん、そう思われていたのならやめる。他に何か欲しいものはある?ヒカリさんが欲しいと思うものならなんでも……」
「なら二度と私の前に現れないで欲しい」
「どうして……?」
「嫌いだから」
私がそう言うと、ヒカゲは黙り込んだ。さすがに怒ったのかと思ったが、モニター越しに聞こえてくるのは鼻をすする音だった。
ヒカゲは泣いていた。
「泣いてるの?気持ち悪」
口ではそう言ってみたけれど、実は私も泣いていた。
涙を流すということは、それはその人が私に本心で向き合ってくれていることの証明だった。
誰かが仮面を付けずに私に接してくれるのはいつぶりだろう。そのことが嬉しくて嬉しくてたまらなかった。
肩を落として踵を返し、画面の中で小さく遠ざかっていくヒカゲの姿を見て私は、
「待って!」
と思わず叫んだ。ヒカゲは足を止めて振り返った。
「……何もない」
色んな言葉が頭に浮かんだけれど、やはりそれを口に出すことはできなくて、私はこのように言うしかなかった。
けれど、ヒカゲにはこの言葉だけで十分だったみたいで、少しだけ微笑むとまた変わらず明日も明後日も私のところへ来てくれて、モニター越しに話をすることが、私の毎日の一番の楽しみになった。
ある日、モニター越しに映るヒカゲの腕が包帯でぐるぐる巻きになっているのが見え、頭を殴られたような気分になった。
「ここに来るのも、私と話すのも今日で最後にして」
当然頑固なヒカゲがそのような要求を飲むはずもなく、「もし明日も来るなら私は死ぬ」と宣言したら、どうやら裏目だったようで「じゃあもう僕も二度とここから動かない」とヒカゲは意地になった。
5時間ほど放置してみたが全く帰る気配を見せなかったので、私は覚悟を決めた。不思議な力について全てを伝える覚悟を。
「そういうことか」
全てを聞いたヒカゲの反応は意外だった。
「驚かないの?」
「なんでか分からないけど、なんとなくそういうことだろうって思ってた」
「この話を聞いても、まだ私と話を続ける?」
そう聞くと「うん」とけとりと答えるものだから狼狽えた。
「死ぬのが怖くないの?」
「さっきの話だと、物理的に隠したり距離を置くのが一番効果的なんでしょ?ならちょっとぐらいこうやって喋ったところで死にはしない」
「でも現に腕が……」
「僕はね、元々不幸なんだよ。ヒカリさんが前に言ったように陰キャで口下手で友達もいない。不幸には慣れ切ってる。だけど今はヒカリさんがいる。ヒカリさんと話していると楽しいんだ」
ヒカゲはぐるぐる巻きになった自分の腕を見るとほほ笑んだ。
「確かに周りから見たら不幸かもしれない。けど、自分では今幸せなんだ。腕が折れる程度の不幸なんてヒカリさんと話せる幸せが簡単にかき消してくれるから」
「馬鹿じゃないの」
と私は鼻で笑う。嬉しさを隠すために。
「知ってる? ヒカリさんがいなくなってからのクラスはこれまで以上に滅茶苦茶なんだ」
ヒカゲはまたゆっくりと話し出した。
「ヒカリさんはそれを自分のせいだと思うかもしれないけど……いや、確かにヒカリさんのせいだと思うけど」
「慰めに来たの? 追い打ちをかけに来たの?」
私がいたずらっぽく言うとヒカゲはあたふたして、その姿が面白くて笑った。
「『自分の幸福が他人の不幸を加速させる。光が闇を色濃くさせる』そうだよね?」
ヒカゲの問いかけに私は「うん」と首を縦に振った。
「じゃあもしそこから光が消えたら?」
ヒカゲの問いかけの意味に気付いた私ははっとした。
「どうせ闇しかない。だから今のクラスは滅茶苦茶なんだ」
ヒカゲはドアフォンのカメラに向かって手を伸ばした。
「戻ってきて。皆ヒカリさんがやっぱり大事だって心の中で気づいてるよ。またみんなと一緒に楽しく過ごそう」
私は涙をこらえられずにいた。嬉しかった。ヒカゲの言い分は十分に理解できた。今すぐにでも玄関に駆け出して扉を開けてヒカゲの手を取って、みんなの所に向かいたかった。
けれど、ふと脳裏にフラッシュバックする母の姿。もう絶対に2人目の母を生んではならない。
「戻りたい……けど、また前と同じように誰かを傷つけてしまうのが怖い」
「それは大丈夫」
とヒカゲは微笑みかけてくれた。
「もしすぐに戻るのが怖いなら、適切な距離感とかみんなを傷つけない方法は、僕を実験台にして少しずつ探していけばいい。どれだけの災難に見舞われても、ヒカリさんと一緒にいる限り、僕は不幸にならない」
ヒカゲは自らがとんでもなく頭のおかしい発言をしているのを理解しているのかしていないのか、あっけらかんと言った。
「馬鹿じゃないの」
そう言いながらも私は再び幸福になる決意をし、すりガラスから木漏れ日が差し込む玄関へと向かった。
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