シュルレアリスムは何処へいったか?
「シュルレアリスムは何処へいったか?」それはそのまま「シュルレアリスムは可能か?」という問いでもある。
アンドレ・ブルトンのシュルレアリスム宣言が刊行されておよそ100年になる。なぜ今更シュルレアリスムなのか?と思う人もいるかもしれない。シュルレアリスムは歴史的な文脈の上では20世紀初頭に生じた人間の夢や無意識の世界を描き出す芸術運動の一つとして位置付けられる向きもあるが、かのマルセル・デュシャンもピエール・カバンヌとの対談の中で述べている通り、それは例えば印象派などのように絵画技法上の一流派やある表現傾向を指すものではなく、哲学や社会学にまで拡がるかなり広大な領域を扱っていたはずのものである。
いみじくもアンドレ・ブルトンが魔術的芸術という呼び名で時代的な新旧を問わず様々な美術品をコレクションしていたのは、その領域が時間的な前後方向の軸ではなく、超時代的な人間精神の上下方向の軸、または垂直軸領域の問題だと見抜いていたためだろう。
こうした意味で、シュルレアリスムはただ「幻想的な絵を描きましょう」とかそういう意味ではないし、「シュルレアリスムは可能か?」という問いは、シュルレアリスム的な絵を描くことで現在のアートマーケットの中でアーティストとして成功することができるか?という意味でも無論ない。そもそもアンドレ・ブルトンが〈働くことへの拒否〉など、その言葉の端々に語りまた政治的な活動に身を投じさせたのは、そうした資本主義的なまさに“現実的な”画角からいかに人間を超越させるか、というところにその主眼があったのは間違いないだろう。
現在にあってもほとんど私たちの活動は「お金をいかに稼ぐのか」というところに結局はその注意を帰着せざるを得ないような状況に置かれたままである。むしろこの100年の間にその流れはますます加速しその濁流に人間は抗いようもなく圧倒されているようにもみえる。
その流れの中で私はシュルレアリスムから多大な影響と啓示を得てきた一人の絵描きとして、言わば内側から「シュルレアリスムはどこへ行ったのか?」そして「それは可能であるのか?」という問いとともに、今一度シュルレアリスム的なるものの現在的なその輪郭を露わにし、その学問的/思想的な領域や日々の実生活の中で有効なその方法までを私なりにできるだけ描写しておきたいと思う次第である。
それはシュルレアリスムが歴史の中に埋没し消えさりつつあるのではなく、ようやくその実効性が問われる時代に差し掛かったのであり、かつてのシュルレアリストたちが好んで使ったというあのアルチュール・ランボーの〈生を変える〉という言葉の通り、今日にあってむしろようやく「シュルレアリスムは可能である」ということをアンドレ・ブルトンが言うところの〈いとしい想像力〉とともに、まさにその“超現実的な現実”を生きていこうとすることでもある。
アンドレ・ブルトンはシュルレアリスム宣言の末尾をこう締めくくっている。
生きること、生きるのをやめることは想像のなかの解決だ。生はべつのところにある。
アンドレ・ブルトン『シュルレアリスム宣言』 訳:巌谷國士
アンドレ・ブルトンが指し示していたシュルレアリスム的な生のあり方を或いは「詩的な領域の現実への流入」と言い換えることもできるかもしれない。私たちが現実と呼んでいる画角にまさにコラージュのように詩的な領域を結合させるのだ。そもそも人間の頭の中などはろくでもない観念(妄想)で埋め尽くされているのだから。
そのためにもまず取り掛かるべきなのは、その人の価値観までになった数々の観念的なガラクタをガラクタだと見抜き、改変または消去する必要があるだろう。
テクノロジーの進化や時代的な背景からも人間を取り巻く状況は整いつつあるように思う。現在はまさに「引き絞られた弓」なのかもしれない。
私たちの放たれた矢は何を射止めるのか?
何を!?
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