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失われた半身を求めて

この文章は2025年1月10日(金)〜1月26日(日)開催の「はじまりの物語」展(美術實驗室夜/東京・日本橋)に出品した自作品の解説文である。

2025年の巳年に因んで企画されたこの展覧会は、蛇から連想されるキリスト教の聖書にあるアダムとイブの“はじまりの物語”をテーマとしている。

この展覧会のために制作した作品は蛇と知恵の実をモチーフとした「はじまりの肉」。そしてアダムとイブをモチーフとした対となる「はじまりの男」と「はじまりの女」の3点となる。

キリスト教の聖書には、はじめの人間アダムは土から作られ、そのアダムの肋骨からイブが作られたとある。その後楽園に住んでいたアダムとイブは蛇に唆されて禁じられた知恵の実を食べてしまいその結果二人は楽園を追放されてしまう。

「アダムとイヴ」アルブレヒト・デューラー作/1507年/板に油彩/209cm×81cm

こうしたはじまりの物語はキリスト教の聖書だけに留まらず世界各地に伝承や神話として残されている。
例えばギリシアの哲学者プラトンによるとはじめの人間は両性具有であり球体であったという。
また西アフリカのマリ共和国のドゴン族に伝わる神話には創造主アンマに最初に造られたノンモという双子の精霊が登場する。ノンモは残された彫像などによると上半身が双子の人間で背中合わせになっており、両腕に関節はなくだらりと垂れ下がり、そして下半身が蛇になっているという。

「ノンモ」Wikipediaより
「青い狐〜ドゴンの宇宙哲学〜」マルセル・グリオール&ジュルメーヌ・ディテルラン著より

この様にキリスト教の聖書に限らず日本神話のイザナギとイザナミなども含めこの「はじまりの物語」には様々なものが語り継がれている。
そして興味深いのはその話には聖書とドゴン族の神話に出てきた「蛇」のモチーフのようにどこか似た要素があるということだ。

今回の展覧会のテーマである“はじまりの物語”ではそうした各地域や民族に伝わる物語を横断し混ぜ合わせながら自分になりの「はじまりの物語」のイメージとして絵にすることになったというわけである。

では具体的に作品を観ていくことにしよう。
まずは今回の展覧会のDMにも使っていただいたこちらの作品から。

「はじまりの肉-The Beginning flesh-」35×27cm(F5)/油彩/板/2025年

中央に人間の頭部が置かれている。それも顔が両面に付いている。
頬の皮膚は剥がれ内部の筋肉組織が露出している。そして頭はまるで喰われたかのように陥没している。
画面上部には暗闇の中から忍び寄るかのように蛇が姿を現している。
頭部の横には林檎とそしてイチジクの葉が置かれている。
絵に描かれていることをそのまま説明するとこんなところであるが、私が何を考えてこうした図像を描いたのかを解説してみよう。
蛇、林檎、そして恥部を隠すイチジクの葉は伝統的な西洋絵画のアダムとイブの絵にも登場する定番のモチーフである。
そして置かれた頭部はプラトンの最初の人間の話から両性具有の球体に見立てた。
それは神が土から初めに作った人という「肉」の塊でありそれは今まさに出来上がりつつある(皮膚や頭部が欠けているのはそれは作られつつある最中であることを示している)。
ここでこの頭部のイメージを描きながらながらふと閃いたことがある。
描いている頭部が一つの果実の様に見えたのだ。
西洋絵画に出てくる知恵の実はもっぱら林檎であるが、知恵の実は果実なのでなく、知恵の実というくらいだからそれは何者かの頭部だったのではないか?
それはつまり最初の人間の頭部だった。アダムとイブがまだ合体したままのまるで果実の様な両性具有の肉の球体。
それが知恵の実(身)だったのである。
しかし待ってほしい。知恵の実を食べたのはそのアダムとイブではなかったのか?
自分で自分を食べるというのはどういうことだろう?
そういえば蛇にはウロボロスという自分の尾っぽを自分で食べて輪になっている図像がある。
実はその実を食べたのはアダムとイブを唆したとされる蛇だったのではないか?
そんな考えが浮かんだのである。
そうなのだ。あのドゴン族の最初の精霊ノンモ。その姿は下半身が蛇であるという。すなわちそれは知恵の実(身)である両性具有の最初の人間(アダムとイブ)を喰ったその後の姿だったのだ!
先ほど頭部が抉られているのは作られつつある最中であるからと述べたばかりだがそれと同時に蛇に喰われたことも示しているのである。
まだ人間がつくられた最初の頃の話であるからして時間の流れもまだ不安定でありそのため時系列も前後が混在しているということにしておこう。
自分の尾を食べることで円環として永遠の存在だった蛇。その蛇が自分自身ではなく最初の人間を食べることで円環が解かれこの世界がはじまった。
つまりそういうことなのではないだろうか?!

興奮を隠しつつ話は次の対となる男女の絵に移る。

はじまりの男-The Beginning Man-」72.7×50cm(M20)/油彩/パネル/2025年
「はじまりの女-The Beginning Woman-」72.7×50cm(M20)/油彩/パネル/2025年

佇む男女。それははじまりの二人。
背後にはまたしても聖書モチーフである蛇、手には林檎、そして股間を隠すイチジクの葉。
しかしこれはどうしたことだろう?両者の体は腹から裂かれ、顔の辺りは大きく切り開かれ肉の裏地がめくれてしまっている。
男の方は裂かれた部分から脊椎が露出し、丁度その頭部の辺りには肩甲骨や骨盤を思わせる骨でできた異形の仮面のような顔。
さらにその上部にはあのキリストが磔刑に処された時の様な貼り付けられた姿がこれまた骨の様なもので形作られている。
体から迫り出した“それ”はその造形から十字架を思わせ、或いは体に突き刺されている剣の様にも見える。それには筋肉組織が纏わりつき部分的に引き摺り出された神経網が垂れ下がっている。

女の方はこれは丁度男の方の十字架状の形状が版を押したかのように凹状に写し取られ抉られている。その凹みはその更に奥の闇に繋がっているかのようだ。裏返された体の濡れた肉色と相まってそれはどこか女性器を思わせる。
しかし、人の顔に当たる部分が十字に穿たれた女性の秘部とは・・・!

そしてよく見るとこの男女両者の腕はその関節が逆方向に曲がった「逆手」になっている。これはどうしたことなのだろう・・・!?

ここでまたもや先のドゴン族の神話を思い出して欲しい。
最初の精霊ノンモは上半身が人間で両腕に関節はなくだらりと垂れ下がり下半身が蛇になっている。
そしてプラトンの云う最初の人間は両性具有であったこと。
つまりこの絵に描かれた男女ははじめは合体した一つの存在だったのだ。
開かれた肉が丁度向かい合わせにその凹凸が合わさる様に結合される。その時あのノンモの像の様に男女は一体となり、お互いは背中合わせのように逆向きになる。前は後ろ、後ろは前に。だからその腕は逆手だったのだ。
その状態から私たちは引き裂かれたのだ!
男と女に!貴方と私に!
あれから私たちはずっと探している。
自分の失われてしまった半身を。
自分の背面に背中合わせになるかのように存在していたはずのもう一人の自分自身を!
それこそが私たちの失われた「半身」なのである。

はじまりの物語。それは遠い遥か昔に起こった出来事なのではない。その時はじまった私たち人間の在り方は当然のことながらまさに今この瞬間にも生じ続けていることなのである。

この絵を自分で描いておいて私はなんだが描いてはいけないものを描いてしまった気がして内心密かにたじろいでいた。
私は「人間が見てはいけないもの」を描きたがっているようにも思う。
大袈裟に言えばそれこそが全ての画家の本当の仕事なのではないのかとも。
そしてその“見てはいけないもの”とは恐らく本当の自分自身の姿なのだ。

日本神話のイザナギとイザナミの有名な話の中で「振り返ってはならない」というものがある。
話の筋としては死んで黄泉の国に行ってしまったイザナミを取り戻そうとイザナギは冥界へと赴き、そこでイザナミを見つけ連れて帰ろうとした時にイザナミに「現世に帰るまで“決して振り返るな”」と言われる。しかしイザナギは見ることの誘惑に負けて振り返ってしまい腐乱したイザナミの悍ましい(おぞましい)姿を見てしまう。
この“見てはいけない”と“振り返るな”はそのまま人間がこの世界を生じさせている原理的な構造のことを言っているのであって、人間がその秘密を見たと同時にこの世界は閉じられてしまう。
私はこの話はそういったこの世の理(ことわり)のことを言っている気がしてならない。

そして、人間は本当の意味では振り返ることはできないように(今のところ)なっているのだ。
つまり人は常に「前側」しか見えないようになっていて、後ろを見ようと振り返っても、その時後ろはどうしてもそれを見た時には前になってしまうのである。
それはどういうことか?
哲学や精神世界の思想の中に「私たちの外側に広がっているこの世界は、私たちの内面の世界が“反転投影されたもの”」だとする考え方がある。
私たちは自分自身の内なる精神の世界を外側に映し出し、それを物質的な世界として体験しているというのである。

また、ドイツの生物学者であるヤーコプ・フォン・ユクスキュルが1900年代初頭に提唱した「環世界」という概念がある。環世界は環境世界のことであり昆虫から人間までそれぞれの生物にはそれぞれ独自の知覚によって構築されたそれぞれの全く異なる世界を持っているというものである。ノミにはノミの世界、犬には犬の世界、人間には人間の世界という具合に。そして私たち人間同士でも様々な経験の違いや興味関心、価値観の違いから全く同じものを見ているようでいて全く別の世界を自分の意識として展開しているのである。
その観世界の概念は「一人一宇宙(ひとりひとうちゅう)」とも言い換えることができる。
一つ一つの一人一人の意識は全く独自の自分だけの宇宙を持っているということである。

ここで私たちの世界観を覆してしまうような世界像の大きな変換の話がある。
それぞれの生物がそれぞれの意識がそれぞれ全く独自の世界を展開しているのだとしたら、私たちが大抵は当然のことであると考えている一つの客観的な世界は実はどこにも存在しないのではないか?というものである。
私たちは常日頃、自分自身とは別に存在している一つの強固な客観的な世界があり、その一つのフィールドにそれぞれの存在は投げ込まれていて、自分は他の全ての存在と同様にその中を動き回っていると考えている。しかしそれは実は転倒した世界観であり、本当は自分自身の意識の方が不動なのであり周りの世界の方が動いているというのだ。
まるで天動説から地動説への転換のような話だが、自分の目の前に広がるこの世界がそういうものだとして眺めると確かにそれぞれの存在はそれぞれ別の世界をその意識上に展開しているように見える。
その世界観は一つの客観世界があるどころではなく、それぞれの意識が独自に展開している無数の宇宙が多重的に折り重なっているという摩訶不思議な世界観となる。

ここで私たちのこの“客観世界”を正確に写すことができるとされるカメラの原型となったカメラオブスクラを登場させよう。つまりピンホールカメラのことである。

このカメラオブスクラは壁に開けられた小さな穴を通して外側の世界が反対側の壁に映し出されるという光学的原理によるものであるが、このカメラオブスクラで得られた像はなんと上下左右が反転しているのである!
それは私たちの世界が内側を外側へと反転投影されたものであることを表しているのではあるまいか!?

このように、私たち一人一人の世界は自分の意識を中心として「球状」に展開されたものであるとするなら、その世界の中心は自分の意識という不動の一点となる。その場所は身体の位置的には脳幹の部分になるだろう。
そこに上図のカメラオブスクラのように私たちの内側の世界につながる穴があるのだ。その穴こそが自分の内側へとつながるこの世界の穴。
それを私は「意識のバックドア」と呼んでいる。
私たちはこの一点を中心にその点を軸として内側を外側に球面上に展開させて世界を眺めていることになる。
その状態が「私たちは常に前側しか見ることができず本当の意味で“振り返ることができない”」ということの意味である。
そして私たちが本当に振り返ることができた時、そこには意識のバックドアがありそのドアの向こうには裏返った私たちの内面の世界が広がっているのである。

そのことを表したのが半立体作品として2023年に私が制作した下の作品である。

「Turning」 27cmΦ/2023年/Oil and alkyd on board

この作品は支持体となっている厚めの板が物理的に円盤状になっていてそこに描かれたこの人物自体が円盤の形に沿うように球状に変容している。まるでこの人の世界はこの人自身のものとして完結しているかのように。そして脳幹に当たる部分から扇型の肉が放射状に広がり、そしてこの人物は今まさに“振り返ろうとしている。”

これに関しては童謡の「かごめかごめ」のあの不可解で謎めいた歌詞にも符合する。
「かごめかごめの“かご”は籠のことである」や「鶴と亀がすべったの“すべった”は滑ったのではなく統べたである」とか言葉の意味としては諸説あるとのことだが、歌の最後に「後ろの正面だ〜あれ?」とある。
この後ろの正面とは?そしてそれは誰なのか?
そうなのだ。それこそが本当の自分自身であり、そしてそれこそが“自分自身であるところの他者”なのだ。

人間がこの世を彷徨いながら出会いたがっているのは自分自身の半身、それは(この言葉自体矛盾したものだと思うが意味合いとして妥当だと思われる)“自分自身であるところの他者”なのだ。
私たちがずっと探しているのはその人なのである。

そしてその人はこの世界のどこを探しても見つからない。
なぜならその人は常に自分自身の後ろに背中合わせの様にして存在しているからだ。

その人に出会う為には私たちは“本当の意味で振り返る”必要がある。
つまり前を向いたままで後ろを振り返るのだ。イメージとしては肉体はそのままで中だけ振り返る。私たちはどうしても物体的にしかイメージできないところがあるから中の骨格だけを振り返らせることになる。つまり脊椎を軸にして。体の中でぐるりと振り返る。物理的にはそんなことはもちろん不可能だがイメージの中でそれを行ったとしたら、体の中の全ての神経組織が引きちぎられることになるだろう。

この対となる2点の絵はそうした考えを象徴的に図像として表したものになる。

なんとも恐ろしくも悍ましい図像だが、私たちは心の中にそうした恐ろしいものを閉じ込めておく禁域としての穢れの世界を形造っている。それはこの世界を生きるうちに心の中で少しづつ形成された領域である。
日本の民俗学者柳田國男氏が見出した「ハレとケ」そして「ケガレ」の世界観。
「ハレ」は晴れ着などと言われるように儀礼や祭りなどの“非日常”の世界。
それに対し「ケ」は明治以前まで使われた普段という意味の“日常”の世界。
そして「ケガレ」は「ケ」が枯れたことを意味し、死や病などを不浄のものとして“禁止”した世界。
この禁じられた世界は侵してはならない聖域でもある。聖なる世界は畏れと共にあるのだ。
昔山などは神の領域として入ることを禁じられていた。そうした風習は今では迷信の類と考えられているが、その真相は人間の内部の心の領域の構造を外部の世界として写し見ていたからなのだ。
禁止と侵犯はかのジョルジュ・バタイユもしきりに主張していた人間の世界(心理)の構造でもある。

一部の作家がことさら悍ましいイメージを作り出そうとするのも、それは現代ではすっかりないものとされている聖なる領域の在処を畏れの感情を通して指し示す為なのである。
それを見て人は怖いと思う。と同時にその畏怖の心の中に魅惑された自分自身を見出すのだ。
そこに聖なる存在と繋がった自分自身である「半“神”」を見つけるから。

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