リアリズム絵画について
リアリズム絵画について書いておこうと思う。それにはまずとりあえずはここ数年の写実絵画ブームからの美人画系写実絵画というジャンルについて。そこからリアリズム絵画からのシュルレアリズム絵画についての話を交えながらなんとなく話をまとめておきたい。
ではリアリズム絵画である。
リアリズム絵画といえば風景や物や人物を本物と見紛うほど克明に(写実的に)描かれている絵画ジャンルの一つであると言えよう。
このリアリズム絵画というと美術史的な文脈で言えばかのギュスターヴ・クールベに代表される「写実主義」の画家たちが想起されるが、昨今の日本における写実絵画ブーム(といっても随分前の話かもしれない)の文脈で言えば、アントニオ・ロペスなどのスペインリアリズムの系譜に連なる絵画スタイルを指すことになるだろうか。というよりもこの日本における昨今の写実絵画ブームを支えている主な理由として考えられるのは、リアリズム絵画という領域と重なるように存在する美人画というジャンルであるだろう。
ネット上などでリアリズム系絵画作品が賞賛されている場合などに頻繁に目につくのが「写真みたい」または「写真だと思った」というものである。これは僕からすればこれは「単に写真を写しただけではないか」と逆に侮辱になるのではないかと思うのだが、その賞賛の意味としては専らその描き手の技術力の高さであるのだろう。「手で描かれているのにまるで写真のように克明に描き出せる技術」人々はこれに驚嘆するわけである。
そして「写真かと思った」の言葉に続くのが「すごく美しいです」や「うっとりします」などである。それもそのはずでそこに写実的に描かれているのは「美女」もしくは「美女をあしらった何かしらの情景」だったりするからである。
ここでもし絵画の鑑賞者が描き手の技術力の高さに価値を見ているならば、その描かれた対象が美女でなく例えばあろうことか道端に配された犬の排泄物であったとしても驚嘆の声を上げて然るべきだろう。(違う意味で驚嘆するかもしれないが)しかし、そうはならないようである。
つまるところ、「写真のように克明に描ける技術+美女(もしくは美しい系の何か)」の組み合わせによって、人々はうっとりとするのである。それの一体何がいけないのかと言われれば何がいけないということもとりあえずはないのだが、少なくともそれはリアリズム絵画(リアルとは何か?という問いが内包された絵画スタイル)というよりは美人画であるだろうということである。
そして美人画であるからにはそこには卑猥な目線で性を消費するという側面が避けがたく存在している。その辺りは後述するとして、ここで先ほど取り上げたクールベなどの写実主義の画家たちが描いた作品を見てみよう。
歴史の変遷の中でそれまでの絵画は宗教画や歴史画や神話の情景など、もしくは王族や貴族を描いたものが主流であったが、クールベたちはごく日常的な何でもない風景やそこにいる何でもない人々を描いた。
上にあげた二枚の絵画のうち、上の一枚はそれまで公然とは描かれなかったであろうようなあっけらかんとした形で描かれた女性の陰部、下の一枚は「クールベさんこんにちは」でお馴染みの、道端で起きた日常的なただ出来事である。
つまり神話やキリスト教の教えをなどを想像力により絵として描き出したのではなく、目の前に実際に見える「現実世界」を写実したということである。そうした絵画の出現は社会的な価値観の転換がその背景にあり、画家は想像や理想の世界、誰かの権威のために絵を描いたのではなく現実そのものを描いた(写実した)というわけである。
さてここでひとつ問題として取り上げなくてはならないのはやはり「写真」の存在である。現実の世界をありのままに再現するという意味では写真の発明は決定的であり、記録という側面からも現実に実在したというその証明としての側面もある。(探偵によるホテル前の浮気現場の激写のように。ただ今ではフォトショップなどの写真加工技術の発達でそれすらも疑わしいものとなったが。)
写真が登場したので先ほどの写実系絵画を見たときの人々の反応としてよくみかける「写真かと思った」というあの発言に戻ろう。現実として目の前に現れている世界を克明に再現することにかけては(写真家の視覚云々の話は置いておいて)写真は凄まじい精度を持っている。しかしながら写真が発明された頃はそれなりの驚きをもって迎えられたであろうが、人々は今では写真の現実再現能力にはいちいち驚いたり賞賛したりはしない。もし逆に絵だと思ったら写真だったとなれば恐らく「なんだ写真か」ということになるのであろう。何故こうした反応になるのかと言えば、それは人間の手技に対する価値の優位性もしくは自分で絵を描くことをほとんどしない人たちにとっては全くどうやって描いているかが想像できないので、そのことに対する驚嘆や賛辞であるだろう。自分の手で生み出すということで言えば、写真を撮るということは自分ではカメラそのものは作れないもののカメラさえあれば実際の人間の手技としては「シャッターボタンを押す」である。これなら動作もないというわけである。また写真ととともに現代の文明の利器たるプリンターというものもある。プリンターもまた驚くべき画像再現能力だがそのことに対して人々はいちいち感動したりしない。やはりそこには人間の手技として象徴されるような、人間の「身体性の問題」も孕んでいると思われる。生身の人間がやっていることに生身の人間たる自分自身の能力を重ね合わせ、その「神業」に驚嘆しているということになるだろうか。
因みに写真は写実絵画の絵描きの方々もその絵画制作の中で今では頻繁に使われているようだ。中には写真を使わないという画家の方もいるが大抵の写実画家の方は使用しているようである。
写実絵画を描くときに写真を使うかどうかに関しては、日本のリアリズム絵画を牽引してきた野田弘志氏がその著作「リアリズム絵画入門」の中でこの問題について思い切り触れている。野田氏によれば写真と肉眼とではその見え方がまるで違うと言っている。それは一眼レフカメラというようにカメラは一つの眼で対象を捉えるが、人間の眼は二つあるので対象を二つの目で立体的に捉えているという具合である。ただ野田氏は何かのテレビで観たのだが氏は実際の現実の対象を見ながら描いていながらも写真も併用している。
どうやら写実絵画を描いている画家の方達の中では写真を使っていることを隠したがる人もいるらしいが、写真を使っていることをはっきりと明言している人もいる。
写実絵画に特化した展示をしている千葉県のホキ美術館では、野田氏をはじめとした日本の名だたる写実絵画の画家たちの作品を鑑賞することができる。私も一度行ったことがあるのだが、中にはどうみても写真をそのまま描き写しているのが一目でわかるものもある。そのフォーカスのボケ方、あるいははっきりとカメラのフラッシュが当てられた画像などカメラの目を基にしたものであることが明確にわかる作品もあったように思う。それについてその絵を描いた画家の方がどう考えているのかはわからないが、写真画像をそのまま克明に再現するのであればそれこそプリンターでも構わない気もする。そこで写真を描き写した絵として表現されているその図像なりが問題であるならば、どちらかと言えばそれは画家の仕事というより写真家としての仕事であると言ったほうがいいだろう。とにかく肉眼で現実を捉えたものでも写真を肉眼で捉えているものでも「手技」で再現することに意味があるということなのだろうと思う。それならば写真を見て描いている絵画をより正確にいうならば「写実絵画」ではなく「写真写実絵画」と言った方がいいだろうか。そのことにも一定の意味はあるだろう。写真を書き写しているとは言え、その画家の認識なり身体を一度通された上で表現されているだろうからだ。
しかしながら写実絵画で描かれているその内容が専ら美女かそれに付随する美しげな何かであることには注目せざるを得ない。美人画系写実絵画を揶揄するのはある意味集団系アイドルグループの歌手たちの音楽性を真面目にバカにするのにも似て、それ自体ナンセンスではあるとは思う。勿論写実画家の方たちにも勿論色んな方たちがいて、基本的には誰が何を描こうとその人の勝手なのでそれに対してとやかく言うこともないのだが(かといってとやかく言ってはいけないということもないので言ってしまうが)明確にまさに浮世絵などの大衆文化からつながる美人画としての系譜、よりそれを現代的に言うならばグラビア系美人写実絵画と言ってもいい作品を描いているという人もいる。そしてその絵画はどうやら売れる傾向にある。ただこの写実絵画なのかグラビア絵画なのかの境界も非常に微妙である。なぜなら数十万もしくは数百万を出して売買されているその写実系美人画は決して単なるグラビアに過ぎないとは言ってはいけないだろうからである。その金額に現れているのは単なるグラビア的な図像の転写ではなく芸術作品としての価値であろうからだ。
この辺りの微妙な領域の問題としてそこに現れるのは、ヌードモデルを卑猥な目で見てはいけない、あくまでモデルを美の対象としてつまりは芸術的なものとして見なければならないというあの謎の暗黙の了解とごときものと同質のものであろう。その領域は自分の卑猥な劣情(あるいは対象を美しいものと見せているあの欲望を)美しいものを愛でる高尚なものとして昇華するというある種の欺瞞だと言い切ってしまいたい。欺瞞であるからこそまさにそれを芸術だとしているという具合である。この構造は別に今に始まったことではなくてかつてのグランドマスターたちも神話という文脈にかまけて例えばビーナスの誕生などと言いくるめて女性のヌードを描いている。この辺りの人間の裸体や性衝動などは穢れているので隠蔽しなければならないとするキリスト教的な禁欲主義的な価値観から来ているのだろうと想像するが、私からすれば美と卑猥な視線とは切り離すことができない。美という価値感覚は自らの欲望が対象に投射されて認識されている何かであるだろう。もし私たちが欲望の目線を全く持たずに対象を眺めるならば、そこに見えるのは美女の形をした「肉の塊」でしかなくなるだろう。こうした言い方は私は大好きなのだが、それこそデッサンのときに描くような立方体や円柱などのように対象を完全にただのモチーフとしてフラットに眺められたばらば、それは単なる物体として眺められるはずである。美女が着衣であろうが裸体であろうが、それっぽい優雅な仕草でベットに横たわっていようが思い切り開脚して陰部を曝け出していようがそれらは全く同じただのモチーフとして眺められて然るべきである。そうであるならば、美女の美しい肢体が克明に描かれているその横に、犬の排泄物が克明に置かれていてもなんら問題はないはずである。(今度そんな絵を描いてみようかとも思っている)
だがここでグラビア系写実絵画を貶していても仕方がない。画家としてある程度の収入を確保しながらやっていくのが非常に難しいとされているとくにこの日本の状況では(僕の海外の知り合いに聞いた限りフランスでも大変は大変らしい。ただその大変さの度合いが違う気もするが・・・)、美人画系写実絵画などは何とか人並みの収入を得ながら作家活動を続けられるとても貴重な絵画ジャンルのひとつではあるだろう。そしてその写実絵画の世界でも壮絶な競争がありそこでやっていくとなれば相当な努力と才能と覚悟が必要であることは想像に難くない。そして写実系が絵画の画家たちが恐ろしいほどの超絶テクニックで描いることは間違いないのである。
私がどうしても気になってこんなことを書いているのは、売れている画家への嫉妬心から言っているのだと勘違いされそうだが(それは勘違いどころか全くその通りのところもあるので特に否定はしないけれども)、どちらかというと絵画市場を形成しているあの価値世界が気になっているのだろうと思う。これは何も絵画などのアートマーケットに限らずすべての市場にも言えることだと思うが、美女を売り物にするという意味であれば、日夜テレビで垂れ流されるテレビコマーシャルなども必ずと言っていいほど美男美女が登場している。何が美形なのかという問題もあるが、悉く良きものとして、理想的なものとして象徴されている人間が美年美女のオンパレードであるというのは非常に非倫理的なのではないかとすら私は思う。何故缶酎ハイのCMに実際の主な買い手であるだろう仕事帰りの萎びた格好をした薄汚いおじさんが出てこないのか?!
さてこの話はこのままいくと資本主義といった社会全体の問題になってくるので、とりあえずそこは別の機会に移しておきたいと思う。
話をリアリズム絵画に戻そう。そこにはリアリズムとは何か?という問いがあるはずである。
私が敬愛しているフランシス・ベーコンなどはそのインタビュー集『肉への慈悲』の中で、繰り返し自分は「“よりリアルなもの”を描こうとしている」と言っている。
フランシス・ベーコンといえばあの人体が激しく変容した絵画で有名だが、そこに描き出されているのは写真的な意味での「リアルさ」ではない。ベーコン本人がよりリアルなものとして感取される図像を絵具の流動性や絵具を投げつけるなどの偶然性を駆使して画面に定着しようとしているということである。確かにそこに現れているのは写真的な意味でのリアルさではない。奇妙に変形した図像がそこに現れている。だがベーコンが言うようにそこには「よりリアルな何か」がそこに定着されているように感じられる。それこそが自分にとって(あるいは人間にとって)「よりリアルなもの」であると。
ところで写実系リアリズム絵画のあの絵画形式というのは、実は西洋的な世界の認識の仕方に端を発している。パースペクティブ、マッス、陰影法、遠近法などなど西洋人がこの目の前に広がる現実世界をなんとか平面という絵画空間の中に再現しようとしたその執念の結果だとも言えるだろうか。私はその現実を克明に描き出すというその執念は、現実世界を自らの支配下に置きたいあるいは所有したいというある種強烈な自我の欲望のごときものに突き動かされた結果なのではないかと思う。つまり対象を克明に寸分違わず描き出すことはその対象を征服するということなのだ。それ自体が人間の自我の問題とととに非常にエロティックな衝動とも繋がると考えられる。それが風景であれ静物であれ美女であれ、現実を見える通りにありのままに絵に移し変えてしまうことで、あたかも自らが創造主たる神であるかのように世界を所有してしまうというわけだ。しかしこれはやや穿った見方のような気もするが、とにかく目に見える通りにそのまま寸分違わず写し取ろうとする欲求には、世界というこの「秘密」を、描くことで解き明かしたい、或いは「目に見える外界の世界の中に自らを同化させたい」といった欲求がそこにはあるように思う。
ここで面白い話がある。とある本を読んでいて出てきたのだが、「歴史的な人類の文化や文明の変遷の中、各時代や地域で描かれてきたその絵画表現は、それが描かれた時代の人間の精神性が高ければ高いほど、絵として表現されている図像は“平面化”している。」というものである。私はそれにハッとした思いである。私としては対象を克明に描き出せるというのは人類が進化(認識が発達した)した結果として何となく考えていたが、むしろ逆で精神的に劣化し、言うなれば精神の世界から堕落し物質の世界に囚われてしまい、その結果として物体を克明に描き出すようになったというわけである。実際はどうなのかは私には判断がつかないが、この認識はなかったので非常に面白いと思った次第である。
こうした話もまた各方面に広がって行ってしまうので詳しくはまた別の機会に移したいが、所謂写実絵画に見られるあの対象の認識の仕方は、その発端は西洋文化圏のものであり、ひいては近代国家を形作ったこの現代にもつながる世界の認識の仕方/定義の仕方が内包されているのである。近代国家が国民国家や資本主義や民主市議と相まってここに来てある限界を迎えようとしている現代にあって、画家はなにをどのように描くのかはとても興味深い話ではある。
そしてシュルレアリズム。私は何となく道すがら絵のジャンルとしてはシュルリアリズム系譜を行くことになったのだが、シュルレアリズムもまたそうした近代国家が形成した世界認識に抗う、もしくは超越する為の思想運動であったことは間違いあるまい。
シュルレアリズムは幻想レアリスムとも言われたりするように、その特徴としては夢の世界や無意識の世界など現実ではない(想像または精神の世界)を比較的写実的に、克明に描き出すという絵画スタイルであるとひとまず定義することができるだろう。まさに「幻想の世界をリアルに描き出す」という言葉としてはやや矛盾した絵画表現のことである。しかしそれは単純な意味での想像の世界(ファンタジーの世界)を描き出しているというよりは、その表現により表出しようとしているのは、幻想という私たちにとって「より現実らしい現実」なのであって、そうした意味でシュルレアリズムもまたリアリズム絵画だともいえるのである。
ここでひとまずまとめるとすれば、リアリズム絵画であれシュルレアリズム絵画であれ、美人画であれグラビア絵画であれ、はたまた日本画であれ抽象絵画であれ、その他のなんであれ、私たち人間が等しく求めてやまないのは、恐らく「魂のリアリズム」なのである。
本当のことを
教えておくれ
真実の言葉を
聞かせておくれ
ありのままの姿を
見させておくれ
それだけが私を活かしてくれる
それだけが私のリアリズム
世界と私の
魂のリアリズム
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?