Tグループに参加してきました
9/14から5泊6日で、長野県の御岳で行われた「Tグループ」というものに参加してきました。
Tグループという言葉に耳馴染みのない人も多いと思います。以前の僕もそうでした。Tグループについて、今の僕はもう「耳馴染み」は獲得したけれども、まだ手にできないものがあります。それが、「Tグループとは」を口にすることに対する慣性です。
6日間も家や仕事を空けるわけなので、周囲の人にそれなりの説明が必要になります。しかし、これがなかなか難しい。「何しに行くの?」という問いに対して、結局いつも、「合宿研修」という煮えきらない表現でお茶を濁してしまいます。
Tグループは、個人的には、とても文字にしにくいし、あまり文字にもしたくない。「文字にならないところ」にアクセスするのがTグループ、だとも思っているから。
今回も、Tグループの説明は、できれば書籍からの長い引用で済ませたい。そして、その方が「正しい」説明なのかもしれません。
ただ、何かきっかけがないと自分で言葉にすることもないだろうし、まずは、「Tグループとは」を文字にするところから始めてみようと思います。
ちゃんと理解したい方は、あとでこれらの書籍にあたってほしいなと思います。
Tグループとは
Tグループのセッションは、7~10人のメンバーと2人のファシリテータが1つのグループとなって行います。1回のセッションは75~90分で、これを6日間の間で10数回繰り返します。毎回のセッションが始まるときに、全員が丸く並べた椅子に向かい合う形で座ります。
セッションには、あらかじめ決められた課題や話題がありません。ファシリテータは、「では、始めます」とセッションが始まることを宣言はしますが、その後のことは(終了時刻以外は)何も決まっていません。誰が何を話すのかも決まっていません。誰も何も話さない時間が続くこともあります。
終了時刻になると、そのセッションで起きたこと、感じたことを各自が振り返りシートに記入します。この振り返りシートはセッション終了後に、他のメンバーも見ることができます。もちろん、その逆で、自分が他のメンバーの振り返りシートを見ることもできます。
このようなセッションを繰り返す中で、メンバーに何が起きるのでしょうか。
それは、「今ーここ」で起きていることに気づき、はたらきかける中で、自分自身がどのようなスタイルで感じ、考え、伝え、受け止め、そして、無自覚なものも含め、どのような影響を他のメンバーやグループに与えているのか、ということに対する感度が磨かれていく、という変化です。
こうして、「自分を知る」ということを、日常でやっているのとは桁違いのレベルで深く行うことになります。
今回はさらに、このTグループに、Rグループというもう一つのはたらきかけが加えられていました。今回は3名で構成されたRグループは、Tセッションが行われている間、Tグループとともに時間を過ごします。
ただし、Tグループの会話に参加するといった、明示的なはたらきかけは行いません。Tグループの会話をじっと聞き、セッションが終わるとRグループだけが車座になって座ります。そして、Tグループでのやり取りを聞いて、聴こえてきたことや感じたことをRグループの中で話し合います。
このRグループの会話が特徴的なのは、「Tグループに向かって」話すのではない、という点です。つまり、Tグループへのフィードバックではないのです。
あくまで、「Rグループのメンバーが、Rグループの他のメンバーに語る」のです。そして、Tグループのメンバーは、その「Rグループの中の会話」を外側から聞きます。
「自分たち(Tグループ)のことについて、それを見ていた他の人たち(Rグループ)が話す様子を、自分たち(Tグループ)が目にする」という構図が、Tグループのメンバーにあらたな気づきを運んでくるというのは、想像に難くないでしょう。
2つの「世界」
6日間のTグループの中で、僕にとって印象的だった瞬間があります。
それが、すべてのセッションが終わった最終日の最後の時間に、「日常生活に向かって」というテーマの話を聞くときです。この時間の狙いは、「ここでの学びをふまえて、日常生活に帰っていく準備をする」と示されています。
この時間を迎えたとき、忘れかけていたけれど至極当たり前のことに気付かされます。
そう、僕はこのあと日常に「帰っていく」のだということ。つまり、これまで過ごした6日間は、ある意味で日常「ではない」ということ。「非日常」の時間だった、ということ。
と同時に、もう一つの矛盾するような思いにも包まれます。
この6日間は、紛れもない「現実」だったはずだ、という強い実感です。セッションの中で、向き合い、翻弄され、それでも目を逸らさなかった「今ーここ」は、間違いなく現実として存在していた。
「非日常」でありながら、「現実」である。
この、ねじれているようでありながら、まっすぐつながっているようでもある、2つの「世界」の重なり方が、僕にとってTグループを特別な時間にしているのではと感じます。
Tグループと小説
僕は、「世界」のもう一つの重なり方を知っています。
小説です。Tグループが、「非日常」でありながら「現実」であるとしたら、小説は、「非日常」であり「非現実」なのでは、と僕は思うのです。
活字の世界に潜る時間というのは、日常を離れるという意味でまさしく「非日常」です。では、Tグループとの差分にあたる、小説の「非現実」についてはどうでしょうか。
活字の世界で生きている人たち(登場人物)は、とても生き生きとしているけれども、彼ら/彼女らは、僕と「ともにいる」わけではありません。僕は、彼ら/彼女らを見てはいるけれども、その逆の視線は存在しないわけです。
世界の中の他者(登場人物)から直接的に影響を受けないという片向性ゆえに、小説を読むとき、僕は安全地帯にいます。
この安全地帯としての性質が、「非現実」の所以です。なぜなら、現実においては、無条件の安全地帯に居続けることはできないからです。
一方、Tグループが現実であるとは、次のような構図からです。
「今ーここ」において「ともにいる」からこそ、視線は行き交い、それゆえ傷つくこともある。ただし、日常に帰るまでには、ちゃんとかさぶたになっている。結末としての安全は約束されているけれども、瞬間瞬間を取り出せば、無風の場所ではない。Tグループの「現実」性の一端が、ここに垣間見えます。
このように、小説の「非現実」性と、Tグループの「現実」性とが、僕のなかでは互いに共鳴しながら立ち上がってきます。
小説のはなし
小説は、安全地帯で進行はしますが、それは、自分に「何も起きない」ということとは異なります。小説を読むとき、「自分を知る」という胎動が、確実に自らの内に起こります。
登場人物を見て、感じる。
そのように感じる自分を、感じる。
少なくとも僕には、「『読書している人』を外から見ている人」の目には決して映らない、自分と小説のこのような循環が、安全地帯に居ながらにして(あるいは、安全地帯に居られるからこそ)起きています。
読書する人が醸し出す、じっとして動かず別の時間が流れているような静かな佇まいというのは、現実の世界にいながらにして、非現実の世界である小説と交信している時間が滲み出すことによって作られているのだと思います。
小説は、安全地帯ゆえの非現実性を纏っています。
非現実は、しかし、現実の自分に何も影響を与えない、というわけではありません。
自分自身が非現実の深奥から何かしらを汲み取ることで、自分で自分に影響を与えるという変化の循環が、非現実たる小説には存在します。
あらためて、Tグループとは
Tグループの話をしていたら、いつの間にか小説の話になっていました。
でも、そういうものだし、それでいいのだとも思っています。
やってみてなるほどなと思ったのは、Tグループ「を」、もっと言うと、Tグループ「だけを取り出して」文字にして説明するのは、難しいということ。
それは、Tグループという場や、そこでなされる行為の描写が難しいということではなく、場や行為の描写に「留まることができない」という難しさです。
Tグループは、場と行為を超えた「影響」を持っています。
この影響は、個人という実体の中の胎動であり、また、グループという(目に見えない)関係性の中の運動でもあります。だから、影響のありようは、メンバーの数だけ、メンバーとメンバーの関係性の数だけ多様に存在します。
さらに、その影響は、個人の深いところと臍帯しているため、否が応でも、個人の向こう側に広がっていきます。Tグループの影響は、個人の中に起こり、その個人を発射台にして、その個人固有の「世界」に染み出していく。
こうして、Tグループの影響は、Tグループを離れて、Tグループではないところに影を落とす。今回の僕の場合は、それが小説でした。
目に見えないところで生起し、人の数だけバリエーションが存在し、予想もつかないところに拡散していく。こうした影響の「読めなさ」が、Tグループ「だけを取り出して」説明する難しさ、「文字にならない」所以なのかなと思いました。
文字には還元しきれず、体験でしか「わかる」ことができないのがTグループなのだとしたら、まさしくそこに参加して、体験できた今回の6日間は、僕にとってかけがえのない時間になったことは言うまでもありません。