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江戸時代の円周率3.16の謎にせまる!

投稿日の3月14日は3.14ということで円周率のπの日です。
タイトル通り江戸時代は円周率に3.16が使用されていました。3.16に合わせ3日連続で記事を書いていきます。

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第一章 ・・・3.16の出処
第二章・・・和算家たちの円理の研究と和算ブーム
第三章・・・3.14から3.16への逆行

概要

円周率といえば現代では、3.1415926...とこの後に無限に続くことが知られています。
円周率に少し興味がある人は江戸時代なら和算家の関孝和およびその弟子たちが精密な円周率をすでに求めていたことをご存知かと思います。しかしながら寺子屋に通っていた百姓や町人の子供たちは 3.16 と習っていたのです。
実はいったん3.14に統一された円周率の値は江戸時代後半になると揺らぎ始め古い3.16に逆行するという現象が生じたのです。それはあるものが江戸時代には足りなかったためです。

よって、江戸時代には和算家たちと寺子屋で違う円周率が2つあったのです。
円周率が3.14 に統一されたのは明治維新後の学制発布による学校教育からとなります。

日常生活では3.16が使われた例として、大工道具の差金(曲尺)というL字型の物差しがあり、表には通常の目盛りが刻まれ、その裏には表の数値ごとに円周率を掛けた目盛りが彫られていて、木材にあてて直径を測れば自動的に円周が分かるようになっていました。

円周率の伝来

江戸時代以前の数学の知識は当時の先進国である中国の書物などから得られていたはずです。
歴史を少しだけ紐解いていきましょう。
中国の一番古い数学書(紀元前202年~紀元前186年)の「算数書」、後に2章追加された「九章算術」が用いていたのは 「周三径一」、つまり円周率 3 であった。西暦263年に魏の劉徽(りゅうき)が注釈版「九章算術注」にて正しくは157/50(=3.14、徽率とよぶ)としました。※劉徽は九章算術に欠けていた測量術を補うための付録「海島算経」も書いています。
時が経ち、祖冲之(429~500)の著作の「綴術」では近似分数として 22/7 (=3.14285、約率)、355/113(=3.14159、密率)としています。
「九章算術」「海島算経」「綴術」は日本の奈良時代に渡来し、律令制ができた式部省の下には官吏養成のための大学寮のようなものが置かれ、数学教材として用いられていました。
このように日本には、円周率が 3.14 として伝わっていたはずなのです。
しかし、平安末期には形骸化してしまい世襲の算博士だけが残りました。

日本の数学書出版のはじまり

日本で算数/数学の本が印刷されて多くの人びとの手にわたるようになったのは、江戸時代(1603年〜)が始まって間もないころのことです。
日本で最初に出版(安土桃山時代から江戸時代初期 1615年頃)された算術書で著者不明の「算用記(さんようき)」で日常的な生活に出てくる算数のさまざまな問題をそろばんを使って解く方法を解説したものです。実はその中に「直径が1尺なら、その円周の長さ3尺1寸6分あり」と円周率3.16が出てくるのです。
1622年にその本を少し分かりやすく書き換えた算術書「割算書」があります。この本は実践数学(絹布・米の売買、金・銀の両替、検地や測量、利子の計算方法、面積や体積、円周率(3.16)のまとめなども書かれ、ここにうまくそろばんを生かしています。
著者の毛利勘兵衛重能(もうり かんべえ しげよし)は日本最初のそろばん道場「二条京極珠算道場」を開き、弟子となった3人(吉田光由今村知商、高原吉種)は江戸時代を代表する和算家になりました。特に吉田光由は後に和算ブームを起こすベストセラー「塵劫記(じんこうき)」を刊行しています。高原吉種は、後に和算を発達させた算聖「関孝和」を育てています。

毛利重能は「割り算九九」を日本へ持ち帰りました。「割り算九九」とは鎌倉時代に中国で生まれて、掛け算を語呂で覚える九九のように「八算(はっさん)」と呼ばれる割り算の九九となります。
江戸時代には、どちらの九九も学ばれていたようです。
参照:そろばん教室の開祖・毛利重能【昔は割り算九九があった】

毛利重能の「割算書」の最後には「いま京都に住む、割算の天下一と号(ごう)する者なり」と書かれていました。当時はまだ、「割算が天下一できる」と威張ることができるような時代だったのです。

毛利重能の「割算書」と同年の1622年に百川治兵衛(ももかわじへえ)が「諸勘分物(しょかんぶもの)」を出版している。「諸勘分物」は輸入算術書のように漢文で書かれていたが「割算書」は仮名まじりの日本語で書かれていた。ちなみに「諸勘分物」は円周率3.2であった。

3.16の出処は

1627年に出版した吉田光由の「塵劫記」でも円周率は3.16となっている。しかし、上述したように当時の先進国であった中国では既に円周率3.14であり3.16が見られない。よって、中国の数値を参考はしていないと考えられる。

なぜ、初期の和算家が円周率を3.16としたかの理由は不明である。

私個人の仮説では、そろばんが関係していると思っている。
日本にそろばんが伝わったのは、中国の宋期以後発達したものが室町時代文安元年(1444年)頃に中国商人が通商取引のため、長崎へ伝来した言われています。慶長年間(1596年~1615年)に、長崎から現在の滋賀県大津に製法が伝わりました。当時、大津は交通の要衝で商業の盛んな大阪と京都に近接していたこともあり、そろばんの製造が発達しました。
京都で毛利重能が指導して以来、普及して日常生活でも使用されるようになったと伝えられています。
そろばんでは開平(平方根、2乗根)や開立(立方根、3乗根)の計算ができます。参照:算盤による平方根、立方根の計算(開平、開立)
実は10の平方根(√10)は3.16227となります、円周率は10の平方根に近いと考え、そろばんで計算ができます。当時の円周率の実利的な使用(検地や測量や面積)を考慮すれば、正確な値より実用的な値を選択したんだと思います。

【2021/4/4追記】

他の和算研究家の仮説では、「円のような美しい形を求める数値は、もっと美しい数値になっていいはずだ」と考え「美しい理論」を求めた。その結果 √10 = 3.16 が美しい数値として採用されたと考えられています。
2番目に円周率3.14を求めた野沢定長の著書「算九回」の中で「忽然として円算の妙を悟った」として「円周率の値は形=経験によって求めれば3.14であるが、理=思弁によって求めれば3.16である」として「両方とも捨てるべきでない」と記されていた。


第二章へ続く






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