見出し画像

人間関係格差社会

このnote記事を読んで思うところがあったので、思考の整理も兼ねて残しておく。

そこに愛はあるんか?

結婚相手は「楽しく、安心して、幸せに過ごせる人を選べ」と言うかもしれないけど、そんな他人をどうやって選んだらよいのだろうか?

対談動画「誰が何に対してそんなに怒っているのだろう ゲスト:岩波明氏」の対談で、宮台真司は以下のように指摘した。

芸能人の不倫報道に触れ、「私はこのつまらない旦那で我慢しているのに」という不満が世間にくすぶっていること、経済スペック重視で結婚が行われるようになってと「真の心はあり得ない」「真の心などないのではないか」という疑心暗鬼の広がりを指摘する。

そして、近頃の学生はリスクを考えて性愛的交際を避ける傾向があり、実際の問題としてストーカーが起こりやすくなり、ネットでの晒しに走る粘着な人間もいる。

根本の問題として、各個人に深い関係を取り結ぶだけのリソースがなく、キャラを演じるとか、空気を読むというようなことに強く動機付けられる状況がある、と指摘した。

この議論を進めた宮台真司は近著「経営リーダーのための社会システム論: 構造的問題と僕らの未来」(野田智義との共著、光文社、2022年)で、以下のように論じた。

一緒にいることから性愛が始まるということが現代では見られなくなったため、ナンパも含めてターゲットを決めて声をかけるようになるが、相手へのアプローチは「属性主義的」になる。

このために性愛が損得勘定に帰着されてしまうことで、性的退却が起きる、と。

この変化の時系列についても宮台はこう指摘している。

1980年代の「3高」(=高身長・高学齢・高収入)という言葉に代表されるように女が男をスペックで選ぶ時代だった。

1991年のバブル崩壊後、しばらくの間は「一緒にいると楽しい」という動機が男女を結び付ける時代になる。

ところが1990年代後半、特に1996年以降は人間関係の空洞化と対面の減少(匿名化)を背景に、人間関係が冷え、再びスペック重視に逆戻りした。

この状況が25年以上続いている。

部分的かつ機能的な人間関係が当たり前となり、そこでの人のつながりは限定的、合目的的にならざるを得ない。

芸能人の不倫スキャンダルへのバッシングが、不倫に走った男ではなく、愛人となった女に矛先が向く理由が「真の心」の不在にある、と言えるわけだ。

そう「そこに愛はあるんか?」である。

そのような欠乏の心理の一つの表れがパパ活女子という現象なのかもしれない。

このパパ活界隈を見ても同じ構造がある、と宮台は別のところでも指摘する(年末恒例マル激ライブ コロナ後の世界で権威主義とメタバースに取り込まれないために)。

話を整理するとこうだ。

パパ活の女の子たちの証言によると、一流IT企業の社長やCEO、あるいは大手企業の部長や取締りクラスなど、頭も良くて、心も豊かで、尊敬できるおじさんがいるんじゃないかと期待してパパ活を始めるも、ひとりも出会えない。

買い手になっているお金を払えるおじさんたちを見ても、潜在的に自分たちと同じ不安を感じる。自分は今、勝っているし金も使えて偉そうにできているが、頑張り続けなければ、いつ負け組になって人から後ろ指をさされたりバカにされたりするかわからない、という怯えがある。いざとなったら負けて、孤独死して野垂れ死ぬ、という感覚を持っている人が多いのではないか、と。

これは自尊心のリソースの無さと関連付けられて、例えば「自分が孤独死するかもしれない」と思う人間の割合が急増している。

自分が人間関係の包摂からあぶれているという感覚を持つ人がけ多く、自分がもともと価値のない存在で、頑張って成功したときにだけ価値が出る、と思い込んでいるのが原因だろう、と宮台は指摘する。

まさにスペックや損得、属性といったものが、関わろうとする他人を選ぶ基準であることと、人間関係が冷えた状態であることは車の両輪の関係にある、と言えるだろう。

人間関係の使い捨て

他人を選べるということは自分も査定を受けるということなのだが、そのような「お互い様」の構造自体を忌避し、いかに自分の利益をかき集めるかに熱心な現代人には、「選ばれる」人になるという発想が持てないらしい。

そういう鈍感な人間が人間関係を使い捨てにすることが多い、と経験的に感じる。要は他人への接し方が雑なのだ。

その雑さ加減は、属性主義的な他人へのアプローチであったり、限定的・合目的的な人間関係・交際に現れる、と思うわけで、他人に対してそのように接する人間は人間関係を使い捨てにできる、と言えるだろう。

そして白饅頭も同様の指摘をするのも無理はない、と思うわけである。

 同じくらい能力が劣っている人でも、ただ一点「愛嬌」に恵まれていてその不利を克服できる者と、「愛嬌」がないがゆえに疎外され孤立していく者との間で生じる圧倒的な格差を見せられると、やるせない気分になる。
 そのような格差があるにもかかわらずSNSでは、「トレーニングして少しでも愛嬌ある者たちに近づこう」という方向性の議論はほとんど盛り上がらず、「嫌な関係は切り捨ててしまえばいい」「ひとりで生きていく方がだれにも煩わされずに楽だ」「好かれる努力なんかいらない。ありのままを受け入れてくれない相手など価値はない」――といった「愛嬌なんかくそくらえ」の方向に支持や共感が集まり、ますます先鋭化している。
 個人的にはこのような「SNS的トレンド」にあまり賛同できない。これでは格差がひらく一方になってしまうからだ。ときに反感を買ってしまうが、それを承知のうえで「なるべく周囲の人とつながりを結べるような道を選ぶのがよい」と助言してしまう。人同士の「つながり」は、無視するにはあまりにも大きすぎる力があるからだ。

マガジン限定記事「愛嬌」|白饅頭
https://note.com/terrakei07/n/n9fa72744dfd7 

人間関係格差の時代

読売新聞に興味深い記事が出ていた。

若年層は、人とのつながりを作る力が弱いと記事の中で引用がある。

 宮本みち子・放送大名誉教授(家族社会学)は「兄弟や親戚が少ない環境で育った今の若い人たちは、人とのつながりを作る力が弱く、一度途切れた関係を戻すのが苦手な子が少なくない」と話す。

オンライン慣れ「対面授業怖い」、不調の訴え増加…[コロナ警告]ゆらぐ対人関係 :
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220601-OYT1T50088/

さらに記事は別の指摘を引用する。

 調査に関する有識者研究会の座長を務めた早稲田大の石田光規教授は「若い人の割合が高いのは 剥奪はくだつ 感が大きいからだ」と指摘する。若者はコロナ禍で勉強や恋愛などの自由を奪われたとの意識が強かったとされる。
 石田教授によると、コロナ禍では、人との接触が「不要不急」とされたことで、自分にとって必要な人間関係は何かをチェックする「人間関係の棚卸し」が行われた。人と直接会うには、それに見合った「価値」を求める傾向が強まり、特にオンライン文化に慣れ親しんだ若者に顕著という。
 石田教授は「知識や経済力、容姿といった『資源』を持っているとつながりやすく、ない人は関係をうまく作れなくなった。人間関係をコストパフォーマンス(費用対効果)でみる傾向はコロナ収束後もすぐに戻ることはないだろう」と話す。

オンライン慣れ「対面授業怖い」、不調の訴え増加…[コロナ警告]ゆらぐ対人関係
https://www.yomiuri.co.jp/national/20220601-OYT1T50088/

人間関係の使い捨てにつながる指摘だ。

尤も、この指摘はインフルエンサーと称する人間にも当てはまる。

人間関係の弁証が難しい時代になった点は以前にも指摘した。

人間関係にもリソースが必要な時代、というのも残酷な時代なのかもしれない。

「お互い様」が「価値の交換」という風潮の中では、人間関係の損得化も無理はない。

知識や経済力、容姿といった『資源』の格差が人間関係の格差を生む社会とは、人間関係という名の価値交換のシステムに個人が組み込まれる社会だ。

そして格差は自己増殖してくのだろう。

いいなと思ったら応援しよう!