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反権威の皮を被る権威主義者 #4: ネオナチ化する日本のフェミニスト集団
敢えてきつい表現を使わせてもらった。
そう感じざるを得ないツイートを見たからだ。
腐女子の全体的傾向が明らかに表現規制派だったからBL無罪論が反感買ってるのに、「規制に反対する腐女子もいた」とか「私は反対してた」とかでなんか言った気になる腐女子がいるの草しか生えないんだよな。いい加減に個別的幻想の世界から出て来い。
— 小山(凍) (@iikagenni_siro_) October 31, 2022
「私たちを助けないともうお前の味方はしないぞ」と言う資格があるのは「味方」としての実績を積み上げてきた人間だけなのよ。お前ら明らかに敵じゃん。そりゃ誰も助けんわ。
— 小山(凍) (@iikagenni_siro_) October 31, 2022
まぁしかし「いざという時に誰も助けてくれない」という事態に陥ったら普通は自分の至らなさとか過去の行動とかを内省するんだけど、「なぜ私を助けないんだ!いい加減にしろ!!」と逆ギレできるの本当に凄いと思う。自己肯定感が天元突破してる。
— 小山(凍) (@iikagenni_siro_) October 31, 2022
その無責任さ加減を一言で言えばこうだろう。
FFのある方が「女性はフェミニストの主張に表立って賛成はしないが、彼女らの獲得した優遇は黙って受け取る」という絶望を口にしていた。
— 泥ろ (@SnoKbCW2O34R7Bh) October 30, 2022
今回の件に限らず、この絶望と諦念を世間一般の普通の男性が少しずつ共有しつつあるなと感じる今日この頃 https://t.co/Wj2vfpltpF
俺のところにも書いてたわ。「表現規制を要求する腐フェミのことは前々から嫌だったが、学級会的な雰囲気が強い腐女子界隈では表立ってNOと言えなかった」という声が多数寄せられていた。https://t.co/g5VZ2sRcpV
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) October 31, 2022
いや、黙ってた結果として、絶対数としては少数だった勢力に母屋取られたんだよね??? みたいな話だと思うんだよな。
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) October 31, 2022
このような他力本願的、従属的なマインドこそが権威主義者の振る舞いなのだ。
そして他人の自由が許せない。
これは一見すると正論なようでいて、男が誰に好意を持つかを女(私)にコントロールさせろという非常に支配的な要求なんだよね。ベクトルが違うだけで「俺の好意を断るのはおかしい。俺を好きになるべき」という認知のストーカーと本質は同じ。他者が主体的な感情を持つ事を受け入れられない https://t.co/x2Gpqc6cVJ
— 泥ろ (@SnoKbCW2O34R7Bh) October 30, 2022
昔の「弱者」:公平に社会に参加する「権利」を要求した。
— 田端塾長@11/2 中洲で田端と麻雀しようぜ! (@tabbata) October 29, 2022
最近の「弱者:自分の感情への「配慮」を要求する。
昔の「弱者」は、自分が本来送るべき主体的な人生を送るための自分の「自由」を要求した。
最近の「弱者」は、他人の自由に嫉妬し、他人の「自由」を制限することを要求する。
そうなると「表現の自由」は、女性の人権のサブジャンルになってしまうという副作用もあるんですよね。いまオタク各位が「女性作者を攻撃するのか!」という筋をかなり愛用しているのはわかるんですが、それって「女性の権利こそ最優先」という根本的なところではフェミと同じ論理なんですよね。 https://t.co/4RsmLUnZSh
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) April 6, 2022
そのような昨今の傾向について、こう警告した。
「ドイツ人の商店」
いささか古い話だが2020年の12月のこと。
そして2021年9月の松戸警察署のVtuber起用動画騒動、通称"戸定梨香"問題。
ここのあたりの経緯を見て思ったのである。
白饅頭日誌:4月6日「許せないのは『たわわ』じゃなくて『おまえら』」|白饅頭 @terrakei07 #note https://t.co/oMdsowwe5l 当の"若い"女性や少女たちが「性的で何が悪い」って反撃し始めないことには、この流れは断ち切れないと思いますね。
— クソえもん@総研ひとり (@yajiumafighter1) April 6, 2022
しかし政治闘争という切り口で見れば
そうなると「表現の自由」は、女性の人権のサブジャンルになってしまうという副作用もあるんですよね。いまオタク各位が「女性作者を攻撃するのか!」という筋をかなり愛用しているのはわかるんですが、それって「女性の権利こそ最優先」という根本的なところではフェミと同じ論理なんですよね。 https://t.co/4RsmLUnZSh
— 白饅頭(御田寺圭/光属性Vtuber/バーチャルツイッタラー) (@terrakei07) April 6, 2022
ということなのだ。
「共感されないことを自分への否定や攻撃ととらえる」という傾向の異常性。
そして共感の暴走は暴力的ですらある。
「共感のみに頼って共同体を維持しようとする人々は、共感を抱けない外部の人々に対しては、平気で暴力的にふるまう。凡百の死刑廃止論にはないリアリズムの感覚が…議論の次元を一段と深いものにしている」
— 岩波書店 (@Iwanamishoten) September 8, 2022
新潮10月号で苅部直さんが平野啓一郎『死刑について』をご書評。☞ https://t.co/aCYVAdzce1 pic.twitter.com/nmFuWqoCzJ
そこで「ドイツ人の商店」という実話を引用したい。
「ナチスが政権を取った年のある日、ドイツ人の経営する商店の店先に『ドイツ人の商店』という札がさりげなく張られたとき、一般人は何も感じなかった。またしばらくしたある日、ユダヤ人の店先に黄色い星のマーク(ユダヤ人であることを示す)がさり気なく張られた時も、それはそれだけのことで、それがまさか何年も先の、あのユダヤ人ガス虐殺につながるなどと考えた普通人は一人もいなかったろう。
つまり、「ナチ『革命』の金過程の意味を洞察」できる普通人はいなかったのだ。
きのうに変わらぬきょうがあり、きように変わらぬあしたがあり、家々があり、店があり、仕事があり、食事の時間も、訪問客も、音楽会も、映画も、休日も――別にドイツ一般民衆の思想や性格がナチスになったわけでは全くないのだが、気のつかない世界(=ドイツ社会)の変化に、彼らは『いわばとめどなく順応したのである』。そしてナチスが政権を獲得した1933年から7年がたって、あのアウシュヴィッツが始まったというわけだ。
ふり返って考えてみれば、『一つ一つの措置はきわめて小さく、きわめてうまく説明され、“時折遺憾”の意が表明される』のみで、政治の全過程を最初からのみこんでいる人以外には、その“きわめて小さな措置”の意味はわからない。それは『ほんのちょっと』悪くなっただけだ。だから次の機会を待つということになる。そう思う自分に馴れてしまっているうちに、事態は取り返しがつかなくなってしまった」。
朝日新聞1986年1月1日朝刊 木下順二「小さな兆候こそ」
表現規制反対派は気付いているはずである。既に動き始めていることを。
さて時間軸を2021年の秋に戻そう。
安倍元首相狙撃事件からさかのぼること10ヶ月ほど前の時点で統一教会というキーワードが出ていたのである。
これが意味するところは何であったのか。
ここで共産党の匂いをかぎ取ったので、このようなnoteを書くことになる。
そして迎えた総選挙の結果はご存じの通りだった。上述記事で
一つの見方としては、全国フェミニスト議員連盟が戦果をあげれない組織と見られないように、声を上げ続けて存在アピールとプレゼンとしての示威行為が必要。そうしないと、資金提供者(または支援者)から消される可能性がある、そういう見方もあり得る。
と指摘したが、結果的に「戦果」が得られなかった。
そしてど2022年4月の「月曜のたわわ」騒動も、騒いだ側の裏側を調べられて空砲に終わったのであった。
「水晶の夜」に備えよ!
水晶の夜とは、1938年11月9日夜から10日未明にかけてドイツの各地で発生した反ユダヤ主義暴動、迫害事件のことだ。
しかも時のナチス政権は傍観者として振舞っていた。
表現規制関連で、これと似たような出来事が起きるのだろうか?
恐らくは共産党系が暴走したときに、冒頭で指摘した無責任な女性のマジョリティがナチス政権と同じように傍観者として振舞う可能性は高い。
では、具体的にどのようなシナリオが想定されるだろうか?
それは道徳を法律に書き込もうとするときだろうと想像する。
BL規制が話題になりにくいのは、政治家の票にならないからなんだろうな。そこに政治家が向くターゲットの属性が見え隠れするし、同じ理由で年金の第3号被保険者制度や配偶者控除の見直しが話題にならない。尤も、年金と配偶者控除の問題は社会保障制度と労働市場の懸案となりつつありますがね…
— クソえもん@総研ひとり (@yajiumafighter1) October 30, 2022
その意味では未成年者の描写と同性愛描写、どっちが反道徳的か、という形で突きつけられた時に、同性愛の方が道徳的、というキャンペーンを張る勢力が出てくるかだな…
— クソえもん@総研ひとり (@yajiumafighter1) October 30, 2022
その時は統一教会や矯風会、日本会議あたりは黙っていないと思うし、その強烈なバックラッシュの結果も想像できる。
これのモデルケースは「ちびくろサンボ」問題だ。
そして未成年者を表現することを問題視するという形で表現規制を試みるだろう。
その時は「不思議の国のアリス」のような児童書や絵本ですら絶版になる。
そして、時の政権、与党はこう言って、彼女らとそのシンパが守ろうとしたBLも含む同性愛表現も規制するだろう。
「私はたしかに、あなたがたの訴えに応じるべく尽力しました。しかし一方で、あなた方の大きな声により生活が脅かされるのではないかと不安に感じていた別の市民からの訴えにも、私は平等に声を傾け、そして真摯に応じたのです」
第3章 自由と道徳の神話 4 自由のない国 より
勿論、そこには相互認証破壊的な動きに持ち込むためのロビー活動が必須ではあるけれども、それは表現規制反対運動の目標も戦力も戦術も反転させる必要がある、ということを意味する。
現実のLGBTQ+の人たちを巻き込んで、「私たちのような同性愛者を娯楽で描かれることは不愉快です」と言わせればいいのだから。
これは実に失礼・無礼な話だが、そこまでやるかどうかは別の話。
それにしても絵本や児童文学まで発禁になる、というのは極端なシナリオかもしれない。
しかし法律というのは、人情を酌まないものだ。
補論
2021年の総選挙にあたって炎上した「社会的合意」というもの。
吉良氏は「矛盾はない。ジェンダー政策の部分で言っているのは、子どもに対する性暴力は絶対許さないということだ。児童ポルノも子どもへの性暴力だから許されないということだ。ただし、児童ポルノという言葉を使った表現規制ということに対しては明確に否定している。表現の自由を守り抜くのは当然だし、児童ポルノを無くせば子どもへの性暴力も無くなるという話ではない。どう解決していくかはクリエイターも含めて国民的に議論していくべきだ。具体的には、子どもたちや一般の人たちの目に触れないような場所に置くゾーニングというやり方もあると思うし、“こういう表現は本当にまずいよね”“儲からないよね”という合意ができれば、クリエイターの皆さんも作らなくなると思う」と答えた。
https://times.abema.tv/articles/-/10003601
「儲からない」からやらない、という選択肢は非商業作家にはないだろう。そして合意している側と合意しない側で社会が分断されるはずである。
勿論、表現規制問題で国論が割れるというのは大袈裟な話だし、非現実的ではある。
恐らくは別の論点・争点で上書きされてしまって、政策パッケージの一部として議論されることになるだろうが、野党や左派の現状を見ていると「勝ち目」はない。
その時に表現規制推進派がどのよう戦術で暴れてくるのか、その点は興味深い問題として残されている。