2022/08/27 マガジン限定記事「“女”をまとう男たち」 への長文コメント

※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。

「有害な男らしさ」ブームのバックラッシュとは平和ボケの結果である

上記記事はこう指摘する。

男は加害者、男は差別者、男は抑圧者、男は不快、男は臭い、男は怖い、男は嫌い、男は邪悪――そうした男性差別的な文言が氾濫する「ただしい」時代だからこそ、あらゆる場所で「男性性からの離脱」が起こっている。

「ただしい」時代だからではない。これは平和ボケの結果である、と直感した。

上野千鶴子が著書「女遊び」の中でこう言う。

最後に、平時の男たちの怠惰は、いざ戦時に男たちが身を挺して女子供を守る働きによって免責してもらえるだろう、という考えがある。ところでちょっと待てよ、男たちはいったい何から女たちを守ることになるんだろうか。考えてみると、これもバカバカしいことがわかる。男たちは他の男たちと争いを起こして、自分の女たちを守っているだけである。「守られて」みなければ、敵のほうがもっと「いい男」かもしれないのだ。

そんな構図は「あなたの感想」である。

今般のロシアによるウクライナ侵攻について、河瀨直美による東京大学入学式の式辞が炎上したが、これも同じ構図である。

先ごろ、世界遺産の金峯山寺というお寺の管長様と対話する機会を得ました。本堂蔵王堂には、山から伐ってきたままの大きな樹の柱が御堂を支えています。それらの樹は全て違う種類で、それはまるで森の中に自らが存在しているかのような心地になるとのことでした。なるほどその存在を確かめてみると、それぞれの柱がそれぞれの役割でそこにあって、どれひとつとして何かと比べられることなく、そこにきちんと自らの役割を全うしているようです。この世界観、精神性が今の自分に大きな希望を与えました。元来、宗教や教育の現場には、こういった思想があり、それを次の世代の人たちに伝える大切な役割があるのでしょう。あなたが今日ここにあって、明日から、かの大木の柱のように、しっかりと何かを支え、しっかりと何かであり続ける人であってほしいと願います。また、この管長さんが蔵王堂を去る間際にそっとつぶやいた言葉を私は逃しませんでした。

「僕は、この中であれらの国の名前を言わへんようにしとんや」

金峯山寺には役行者様が鬼を諭して弟子にし、その後も大峰の深い山を共に修行をして歩いた歴史が残っています。節分には「福はウチ、鬼もウチ」という掛け声で、鬼を外へ追いやらないのです。この考え方を千年以上続けている吉野の山深い里の人々の精神性に改めて敬意を抱いています。
 管長様にこの言葉の真意を問うた訳ではないので、これは私の感じ方に過ぎないと思って聞いてください。管長様の言わんとすることは、こういうことではないでしょうか?例えば「ロシア」という国を悪者にすることは簡単である。けれどもその国の正義がウクライナの正義とぶつかり合っているのだとしたら、それを止めるにはどうすればいいのか。なぜこのようなことが起こってしまっているのか。一方的な側からの意見に左右されてものの本質を見誤ってはいないだろうか?誤解を恐れずに言うと「悪」を存在させることで、私は安心していないだろうか?人間は弱い生き物です。だからこそ、つながりあって、とある国家に属してその中で生かされているともいえます。そうして自分たちの国がどこかの国を侵攻する可能性があるということを自覚しておく必要があるのです。そうすることで、自らの中に自制心を持って、それを拒否することを選択したいと想います。
令和4年度東京大学学部入学式 祝辞(映画作家 河瀨 直美 様)

ところが戦場となったウクライナで起きていることは、全く異なる上に、フィンランドでは予備役登録する母親が出てきたという報道もある。

体を鍛える目的としての戦争という観念の無い本邦では、侵略される心配をするのが筋だろう。

さて、現状を見ると、本邦に限らず韓国、中国や他のアジア圏では、キレイ目の美形が流行っている。

中国では行き過ぎを警戒してからか、ブロマンス規制なる話が出ている。

こういう動きが出てくるのであれば、蘭陵王あたりも発禁になるのだろうか?

蛇足だが平和だからこそ起きる、このような現象もある。

体験談:「女装ですか?」じゃなく、「女性ですか?」と言われた話

女性的な美形が好まれる傾向がある、という記事がNature誌に載っていた、と聞いたことがあるので、確かに傾向としてはあるのだろう。

宝塚なんてどうなるんだろう?という気分だが、そこはさておき。

アニメ・マンガ・ゲーム等の2次元関係になってくると、この傾向は加速する。

「マンガの中の美形っぽい見た目」の人が、商業施設の女子トイレに出入りしているのを見ることがあるくらいだ(笑)

現実の問題、男らしさ・女らしさというよりも、持って生まれた生物的な身体を前提に本人の好み(フェチ)を乗っけていくスタイルに忠実なのが女性、という印象すらある。

その一方で"らしさ"の問題は、周囲からの見られ方や人間関係という形で本人を苦しめるケースもある。

以前に高身長女子の嘆き節として聞いた話を紹介したことがあるので再録しておく。

こういう話をした上で、やっと「女装ですか?」じゃなく、「女性ですか?」と言われた体験談を紹介したい。

時はある年の5月連休中の東京ビッグサイト。一部の人にはSuper Comic Cityと言えば分かるだろう。

ここで上はセーラー服、下は半ズボンという出立ちで場内を回っていた時のことである。

補足すると、この日はコスプレ参加可能なため、会場までの往復は普段着で、場内で着替えて動けるという条件。実際に着ていたのは「カードキャプターさくら」の「友枝小学校男子冬制服」である。

そんな格好で場内を回っていたら、私服の女性から「撮っていいですか?」と声をかけられた。

断る理由もないので「どうぞ」って言ったら驚かれた。

「あまりにもかわいいから、てっきり女性の方だと思ってました!」

ってさ…

ここまでなら単なる昔の自慢話として締めくくれるが、前段から読めば本題と関係しているのはお分かりだろう。

2次元の世界ではかわいいとか美人というのは正義なので、そこには性別というものは入ってこない。

これをジェンダーレスと言うのも雑な議論に思える。

単に性差を無くすというよりは、社会的文脈の無関連化や性の入れ替え可能な記号化、そして現実の虚構化をもたらす一つの観念が「かわいい」だからだ。

昨日のりゅうちぇる離婚でも感じたことだが、いきなり出てきて「オマエ、何様だよ!」状態だったわけだから、今回の件で、ようやく現実に帰ってきたとも言えなくはない。

持って生まれた自力では変えられない属性が大きな意味を持つという、封建的な社会を、無関連化、記号化、虚構化で乗り切るという、新たな生き方は、メタバース時代の常識になるのだろうか。

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