最近の議論から
やっぱり我らが小山師匠は指摘してくれた。
マッチングアプリによる出会いが「属性主義的」なアプローチになる、というのは火を見るより明らかだ。
そして、人間関係の市場化がもたらすものは、人間関係の損得化だろう。
その結果、排他的で居心地の良いコミュニティが生まれるという見方もある。しかし、これはアメリカの「富裕層だけの街」と同じで、損得勘定に走る「あさましい連中」の集合にしかならないのではなかろうか。
金の切れ目が縁の切れ目、そんな人間関係を人間関係と呼べるのかは怪しい。
男女関係の損得化の果て
今や既に「他人を値踏みする社会」である。
男女関係も値踏みで決まる、というのは人間関係の市場化が極まった姿である。
このような男女関係の損得化の起源は何だろうか?
実は社会学者も心理学者も結婚相談所の仲人も、20年前には同じことを指摘していたのである。
1996年、社会学者、宮台真司
流石は我らの宮台先生である。大筋はこんな感じだ。(宮台 真司「世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵」(リクルート、1997年))
近代に成熟した結果、社会からロマンが失われた。そのような状況への適応として「今を肯定しながら生きるための『引き出し』」が必要になる。
そして女の子たちは、幼少時から「この世界は、同じことをやっても女に不利になるようにできて いる」 ことを学習するがゆえに、世界と自分との関係に「意識的」になる、という。
そして人間関係の中で居場所を見つけるためのスキルを身に着けていく。
そして、このような学習の結果としての「援助交際」や「コマダム現象」がある、と宮台は指摘する。
「美人妻を持つ誉れ」を与える代わりに夫からカネを搾り取るのが「コマダム」。
「女子高生と戯れる幸せ」を与える代わりにオヤジからカネをむしり取るのが「援助交際」。
このような振る舞いの背後には、1980年代の総合職第一世代、別名「男女雇用機会均等法」第一世代を見た下の世代が「学習」し、男に伍して戦うコストを払うより、男に有利な会社システムや買春天国を逆手にとって、男からむしり取ったカネで消費に明け暮れるようになる、という変化がある、というのが宮台の指摘だ。
この結果、専業主婦志向の復活が見られるという形での「保守化」が始まったし、男という名のリソース獲得競争が繰り広げられるようになったがゆえに、異性選びがスペック重視に巻き戻っていったのであった。
元となる論考が書かれたのは1996年で、ちょうど援助交際ブームがピークアウトしていく頃の論考である。
2001年、心理学者、小倉千加子
小倉千加子と言えば「結婚の条件」の著者だが、この本の出版は2003年。それにさかのぼること2年前の2001年に参議院でこんな証言をしている。
ここで言う「依存の結婚」について小倉は手厳しい。
このような「男選び」に走る背景に、当事者の母親は「男選び」に失敗したという認識を当事者が持っている、と小倉は著書「結婚の条件」でしてきしている。
ここを掘り下げた分析は以下のnoteに整理してある。
2001年、結婚相談所の仲人、板本洋子
上で引用した参議院の質疑で呼ばれていた別の方も、こんな指摘をしていた。
いみじくも、宮台が「世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵」所収の1996年のコラムで男に関しては以下のような指摘をしていたが、見解が一致していることに驚く。
1950年代以降の団地化の中で一般的になった専業主婦であるママに大事に保護されてきたので、友達も遊び場も玩具も塾も学校もママが選んでくれる。
ママにしてみれば、社会に出られず、亭主も期待外れであるがゆえに、ママの自己実現を息子に託す、そういう構造があると宮台は指摘した。
学校に入っても男の子は「成績がいい」「ケンカが強い」「足が速い」というだけで、人間としての評価のゲタがはけるがゆえに居場所は簡単に見つかるという。
宮台の整理に従えば、自己意識の障害が恋愛力の低下に繋がっているのだ。
現状は結果だ
以上のような指摘がなされてから20~25年、ちょうど1世代分の時間が過ぎたが、その中で見えてきたのは「男女関係の損得化」の背後にある「家族の損得化」である。
家族関係の損得化の背後にあるのは、ダグラス・有沢の法則として知られる結婚と収入の関係だ。
全ての判断基準が損得であるとかポジション取りのため、という行動様式が改まる気配はない。
そこには一定の価値観、倫理というものは存在しない。これが現代の、我々日本人の心情風景なのだ。
大人よ、童心に帰れ
価値観のインストール、ということですら適応的学習にしかならない。
エウレカ・荒野氏の、この指摘は我々大人こそが我が身を振り返って噛みしめるべきものだろう。