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【暗黒メモ】女ラブライバー現象の暗黒面

※これから検討するお題目というのはラブライブシリーズに限った話ではないので悪しからず。

以前、動画で「女同士の面倒臭さ」もしくは「有害な女らしさ」を嫌う女性の取りうる選択肢を紹介した。

その中で4つの選択肢・戦略があると指摘した。

4つの選択肢・戦略

そうは言っても、現実は厳しい。

規範からの逸脱か?

そんな彼女たちの一部の現実逃避先が「萌え」、という傾向が1990年代から顕在化している実感がある。

一方で、これは性規範からの逸脱である、という見方と対立するわけである。

以前にセーラームーンを題材に「性的で何が悪い」という規範への反発への形での女性解放のトレンドがあったことを指摘した。

その一方で1980年頃から進む「社会の管理化」と「自己責任化」のトレンドは、逸脱に厳しい風潮を醸成してきた。

それが「セーラームーン30年に思うこと」で指摘した

このような少女趣味そのものは古くから存在していたが、ある一定の年齢以降は卒業すべし、という"社会的規範"のような縛りが一時期弱まっていた時代でもある。
これが最近反転してきているように思えるのだが、それは別の話。

にある"社会的規範"のような縛りが強まる反転の、一つの表れである。

「地位の優劣を社会の外に出る性愛で無化する」構えですら「逸脱」になってしまう。

これと同じ話が同性愛についても適用されるようで適用されない理由、それは同性愛というものが社会の中に組み込まれてしまっているから、という見方も可能だ。

歳の差恋愛はダメ、同性愛はOK。

最近のレディコミやハーレクイン系を見ていると、歳の差恋愛がタブー化した影響か、身分差のある恋愛を描くのがトレンドに思える理由はこれなのかもしれない。

「女の黒い部分」

実は上述の見方以前に、冒頭で指摘した「女同士の面倒臭さ」や「有害な女らしさ」といった「女の黒い部分」が女性自身を苦しめている問題が、昨今の「萌え」を巡る「女の分断」の背景にある。

「何を逸脱と認定するのか」という争いは、まさに政治そのものなのだが、これと「女の黒い部分」が悪魔合体して問題がこじれているわけだ。

本来、これは女の自業自得なのだ、と突き放しても構わないのだが。

「(現実の「女の黒い部分」を持つ)女」から逃げるために「(「女の黒い部分」を持たない美少)女」に走る「女」

この「女の黒い部分」を嫌う女性は確実にいるし、「女の敵は女」が口癖であったり「女同士の人間関係は苦手」であったりする特徴がある。

ある種の社会不適応や非定型発達を見て取るパターンだが、こういう人たちの割合が高い界隈が存在する。

自分が直接足を踏み入れているから言えるのだが、オタク系に代表される二次元愛好者が典型で、だからこそオタク差別問題が1990年代初頭に猖獗を極めたわけだ。

このオタク差別が緩和されるようになったのは社会的認知・受容が進んだからという見方もあるが、実際のところは目につく経済的なドライバーとして政治的に注目されるようになったがゆえに邪険に扱えなくなっただけだろう。

これと同じような「後ろ向き」なメカニズムが「女の黒い部分」を嫌う女性に起きると、オタク系のある特定のジャンルに走るのではないか。

そのヒントがこれだ。「視聴者の女児にモテる」がキーワード。

「百合」を標榜するアニメというわけでもないのになぜ「男の子にモテそうな子」ではなく「女の子にモテそうな子」ばかり出るのかと10年来思っていたが、スーパーのお菓子売り場で目を輝かせてる女児を見て今更気付いた。視聴者の女児にモテるように作ってあるのな。

https://www.pixiv.net/artworks/58732478
Pixiv投稿作品の作者コメントより

元はプリキュアシリーズのキャラクターイラストに付けられたコメントだが、魔法少女であるとか変身ヒロインは「女児の憧れ」という古典的な構図が崩れてきている。

むしろ今時は「友達としてほしい子」の需要がある。
だから「視聴者の女児にモテる」キャラクターが必要なのだ。

「だから親が子供に見せたい番組なんですよ」

BSアニメ夜話での高見恭子の発言より
http://www.happygolucky.jp/otaku/220.php

魔法少女というジャンルが変身ヒロインに取って代わられたのは、進歩によって実生活が便利で快適になってきたことで「魔法」に魅力が感じられなくなったという表面的な原因がある。

一方で「親が子供に見せたい番組」という指摘が意味するのは、親世代も現代の用語でいう「萌え」の洗礼を子供時代に受けているがゆえに、「絵の女の子」というカテゴリーそのものに対する違和感・嫌悪感がない。

むしろ、実質が問われる。

「子供は、汚いものは親のいないところでちゃんと見てるのよ……」

BSアニメ夜話での高見恭子の発言より
http://www.happygolucky.jp/otaku/220.php

「汚いもの」に耐えられなくなったとき、逃避先が二次元になる人もいるだろう。

これは「女の黒い部分」にも言える。
感情移入説もあるけれども、「女の黒い部分」を持たない「友達としてほしい子」への需要が生じるわけだ。

古いデータだが、ラブライブのファンの分析として、年齢層が下になると女性ファン率が上がるというデータがある。

15から19歳 女性 30.2%
15から19歳 男性 25.5%
20代 男性 18.9%
20代 女性 12.3%
30代 男性  8.5%
40代 男性  3.8%
30代 女性  0.9%

博報堂DYメディアパートナーズ/博報堂「コンテンツファン消費行動調査2015」より

こういう傾向について以前、こう指摘した。

これはある種の感情プログラムの問題だし、その手の感情的な交換は女同士が効率的だろう。それが美少女モノの女性ファン・ユーザーが増えてきた背景の一つとしてあるという個人的な印象がある。そう「女の子にモテる女の子」というあり方の一例である。逆に、美少女モノというメディアを通じて"女の子"や"女性性"を再帰的に自覚する(=女の子ってこんな感じと再認識する)人もいるようだ。

女性便益と性的消費の奇妙な関係|クソえもん@総研ひとり
https://note.com/yajiumafighter/n/na81f3bc9b347

この議論を発展させるとすれば、「女の黒い部分」を持たない「友達としてほしい子」への需要があるがゆえに、女性自身が「女の黒い部分」を持たない美少女キャラにハマる構造がある、ということだ。

これが本節の見出しである「(現実の「女の黒い部分」を持つ)女」から逃げるために「(「女の黒い部分」を持たない美少)女」に走る「女」、の含意だ。

まとめ

1990年代の、援助交際現象を追いかけていた宮台真司だったら、ロマンのはしごを外されたが故の「成熟社会への適応」と言うかもしれない。

援助交際問題を取り上げる前、宮台真司は少女漫画が「退廃的なファンタジー」から「現実に乗り出すためのツール」に変化したと指摘していた。

しかし、今の流れは「現実がクソ」だから「(「女の黒い部分」を持たない美少)女」という現実逃避のツールを利用する女性が出てきた、と言えないだろうか。

どうも、これはある種の「巻き戻り」現象に見えて仕方がない。

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