「二次元に自由を求める女」と「女から引き算して男を作る時代」の問題
ツイキャスで2回ほど、テーマ的に繋がりのある話を語ったのだが、ここで改めて整理しておく。
「二次元に自由を求める女」
ここで語ったのは、中国だとコスプレイヤーと、日本だときぐるみと一緒に写真を撮る姿に垣間見える、不自由な現代社会の問題だ。
「多様性のある社会で、お金の価値がやけに高くなる」というけれども、個々人の選択肢が増えるとライフコースの多様性が減少する。
これは日本では1970年代に起きた変化だ。
これは選択肢の人気・不人気の格差があるからで、それが絶対的な価値指標になってしまう。
一部で言われるタワマン文学というのは「規格化された幸せ」の象徴かもしれないが、これこそが多様性の減少の一つの顕れでもある。
要はみんな高給取りのホワイトカラー、サラリーマン(給与所得者、勤め人)になりたがる、という形で1970年代の日本で起きたライフコースの多様性喪失が起きた。
最近言われる地雷系だの量産型だののトレンドの裏にしろ、女児アニメの大きなお姉さんファンにしろ、女ラブライバーにしろ、自分の自由の求め方すら画一的になってきているのは皮肉としか言いようがない。
そんな「カワイイが正義」の不気味さを感じる今日このごろ。
例えば舞浜駅の南口改札とその先で見かける光景について、来場者の男女比の偏りもさることながら、女性客の指向・嗜好にある種の闇と現実の悪い面が透けて見える。
性欲が美女・美少女に向いている感じと言えばいいのか。
このトレンドは、多分1990年代まで遡るであろうと考えていて、それは過去にnoteでも書いた。
同じ視点を持った人は他にもいたようで、下の記事を見て「御意」と思った次第だ。
特に『「少女作品を少女に取り戻す」日本リバイバル』と『少女の頃好きだった少女アニメは大人の男性の性の対象だった地獄』というセクションはご尤もだ。
平たく言ってしまえば「少女漫画=エロい」という図式の問題だ。
1990年代末までは『少女の頃好きだった少女アニメは大人の男性の性の対象だった地獄』が指摘する傾向が強かったのも確かだが、一方で反転する流れもあった。
そして、2010年代に入って二次元関連で「美少女は女のもの」的な雰囲気が強く出てきたというのは、本来のあり方に戻っただけとも言える。
ただしガワというかパッケージが昔とは違う。
1990年代前半からセーラームーン・森高千里・ボディコンの荒木久美子師匠あたりが開拓してきた「女の性的解放」という流れがあるような気がしていて、その流れの上にエロカワの倖田來未なりエビちゃんこと蛯原友里が出てきた。
性的なものを出すことのマイナス面が弱まったと言ってもいい。
ところが旧社会党・共産党系のこじらせ女性議員のように、性を武器にできなかった上の世代と対立するわけだ。
「アツギのタイツ」しかり「戸定梨香」ラッピングバス騒動しかり。
「女から引き算して男を作る時代」
この動画では、現実の女性の見た目と二次元の表現物における見た目のズレを切り口に、少なくとも女性向け(消費者の男女比を見たときのボリュームゾーンが女性優位である)ジャンルにおいては、キャラクターの造形自体が女性優位・女性主体になっている可能性を指摘した。
前々から感じていたことではあるのだが、線の細いなよっとした女性的な造形の美形キャラに関して、これは女性がコスプレする前提の姿形に思えるし、現実にもそれっぽい見た目の人が商業ビルや公共施設の女子トイレに出入りするのは時々見かける、といった点。
2000年代前半の百合(GL)ジャンル確立期に、BLをメインに書いていた作家がGLを書いても、胸を削ってしまえばBL作品として読める、と指摘していたブログ記事もあった。
そして低年齢層向けのいわゆる女児アニメであるとか、児童漫画の女の子向けというくくりの作品を見ていると、睫毛の描写の有無くらいしか男の子・女の子の区別がなくなってきている。
少女として造形を作ったら、胸の膨らみを削って睫毛を描かない、という造形の「男の子」がちらほら出てきている。
そこで話しやすかったのが、プリパラのドロシー&レオナであり、キュアウィングの造形である。
遡ればもっと古い事例があるのかもしれないが、カードキャプターさくらの制服デザインからしてそうではないか?と。
基本は上着が男女共通の変形襟のセーラー服、男の子が黒の半ズボン、女の子が白のプリーツスカート、というデザイン。
恐らくは女子制服のデザインを先に作った上で、男子制服のデザインを作ったのではなかろうか、と思える。
これは今の現実世界というか社会の仕組み・制度のコンセプトは真逆ではないかと指摘できないだろうか。
例えば雇用・労働に関する制度にしても、基本が生理であるとか出産であるとか、そういうのがないというのが前提となっている。
社会の仕組み・制度を俯瞰すれば、組織の構成員は男性が基本であって、女性特有の事情であるとニーズを後出しで追加していく形で制度が整備されてきた。
これとアニメキャラの造形と比べるのは乱暴な議論なのかもしれないが、男主体で足していくor女主体で引き算していくという発想の違い、もしくは逆転がある、という点を指摘したい。
恐らく、これからの時代は制度設計やシステム構築が「女主体で引き算していく」発想で行われて行く可能性が出てきていて、それは女性主体・女性優位の枠組みで作られた文化に触れて育った世代が下から積み上がり始めたからである、というのが上の動画の趣旨だった。
文化は女性主体、女性主導の領域
そして、ここからが本題である。
この現実をどう受け止めればよいのだろうか。
確かに生活費を稼ぐほど金にはならないがゆえに内職的にやっている人がほとんどのマーケットの中で、旦那に養われながら趣味で小遣い稼ぎ、という実にステレオタイプな構図が見て取れてしまう数字ではなかろうか。
ポストを引用したymils(イム)氏も指摘するように、本邦では表現規制問題とは職業差別を通じた女性差別問題なのだ。
前半で指摘した女性性を武器にできなかった上の世代の妬みが表現規制運動の動機にあるとするならば、全てが整合的である。
その一方で、文化の担い手の男女比の偏りが将来もたらすものは未知数だ。
これはアメリカの事例だが、学校教員の男女比の偏りは社会問題ではないかと指摘が出ている。
本邦でも若い男が男性の役割から降り始めたという話が出ることがあるが、これが本当の男女平等だという皮肉な話でもある。
まだまだ時間がかかるとは思うが、女性主体・女性優位の枠組みで作られた文化に触れて育った世代が下から積み上がっていった先に見える光景というのは、今の女児アニメ・少女漫画で描かれるような女主体の"社会"のようになっていくのだろう。
しかし、その下部構造を支えるのは何者なのだろうか…