#ツイキャス文字起こし : #4 キュアウィングとメタバース社会論との接点 (2023.04.09)
↓の動画の文字起こしになります。
最近は真面目な話
社会派が多かったんで
エンタメ系でここ最近話題になった話を
取り上げようかと思うんですけども
今年のアニメ界もどう転ぶかっていうのは
興味深い話題であるんですけど
少なくとも鉄腕アトム60周年が
華麗にスルーされてるのはびっくり
プリキュアも20作目と言いながら
いまいち盛り上がらない
この手のジャンルの元祖であるところの
キューティーハニーから50年ということを
みなさん忘れてしまっているような感じがするんですよね
キューティーハニーが50年と言っても
ダイナミックプロが余力がないとか
元気がないか分からないんですけど
そういう状況じゃないんだな
という気がします
今年に関しては先週放送回だったプリキュアで
キュアウィング初変身ということで
色々ざわついたわけなんですけど
朝日新聞掲載の横国大の先生のコメント
もうしてやったりという感じの
いい仕込みだったなと思うんですけどもね
著書は何冊か読んだことあるので
横浜国立大学の須川亜紀子先生は
この方面のメディアとか表現の専門家なんですけどもね
須川先生の言いたいことはよくわかるんですよ
実はこういうタイプのキャラに関しては
去年ブラックペッパーとかいたわけですし
色々試されてきてたわけですから
そんなに驚くことでもない
この手の話をした時は
セーラームーンの話で出てきたのが
オネェキャラとかオカマキャラとか
変身すると性転換するキャラの話をされるけれども
私もまわりの同世代の人で詳しい人がいるので
話を聞くんですけど
30年前と違うかなって思ったのが
例えばまあオカマとかですね
いわゆる新宿2丁目的なものですかね
本当に外縁部という
ごく一部のものだったってところもあったわけですが
ある意味オネェというのは
おもちゃ的なところもあったのかもしれない
それは語弊あるかもしれないですけど
オネェ的なものに対してセーラームーンの場合は
女性目線というか女性サイドから切り込んできてたところも
いくつかあったのではないかと思います
レズビアン的なものを一般に認知させたっていうのは
結構大きいんじゃないかと思いますけどね
そういうのと比べると30年経って
やっぱり時代変わってきたかなと
これは体験談としてnoteでも何回書きましたけど
「カードキャプターさくら」の友枝小学校の男子制服を着て
場内を歩いたら
「女性ですか?」
と声かけられた話ですけど
アニメ関係とそういう方面というのは
世間一般・社会全般でいうところの
男らしさ・女らしさとはずれてる
直行してるって言ってもいいのかな
カギカッコ付きの「男」「女」みたいな
一般に思われているとは違う二分法
違う基準・水準を持ってるような気がしますね
特に「可愛い」なんて言葉も
古くから使われてきたんだけれども
現在もしくは90年代後半ぐらいからか
「可愛い」という言葉が持つ機能っていうのが
ある種「無害さ」の象徴というか記号というか
そうなってきていて
そこにあるのは
例えば男だから暴力的だと書かれてきたとか
イメージの語れ方とはとは全く違うわけですよ
レベルというか次元が
だからもうそういうことで絵面とか見てると
「男の子」「女の子」って
そんなに実は顔とかパーツとか見てると
差がなくなってきているんですよね
実を言っちゃうと
そういう流れがずっとある中で
今回のキュアウィングみたいなキャラクターが出てきてるというのは
特に驚くことではないと思いましたね
造形的なこと言っちゃうと
プリパラシリーズでいたレオナ・ウエスト君みたいな
ああいうキャラクターもいるわけなんで
特に驚くようなもんじゃないかなって気がします
ただちょっと差をつけてくるとか
そういうところがさりげなく味付けしているというのもありますし
それにアニメなんでって言うと
見下してるとか
どうせそういう問題でしょ
みたいな目で見ている部分もあるんで
否定はしないんですけどね
だけどまあそういう絵になってるから
違和感なく見られるようには作ってある気がします
朝日新聞に出てきた須川亜希子先生のコメントにある
「ノンバイナリー」というのは
一つのキーワードだと思っていて
確かアニメ的な意味で
そのノンバーバイナリーというのは
キーワードになってきていたのは確かでしょうね
90年前半だとみんなセーラームーンの話になりがちなんだけど
幽遊白書の蔵馬なんかも
ちょっとノンバイナリーっぽいですよね
アニメ版は特にそう意識してると言いますか
ちょっと古いとアニメ三銃士のアラミスなんかもそういう感じだったかな
なんか実は女だったみたいなのあったような気がするんだけど
声優も山田栄子さんだったって
そういうノンバイナリー的なものっていうのはもっと古くからあるし
アニメ&漫画的に言っちゃうと
リボンの騎士とかベルサイユのばらとか
ノンバイナリーの話になってくるとどうしても
女の子ベースなんですよね
そういう意味だと
キュアウィングは新しいのかもしれないですね
それは思いました
そこまで角度つけるとか
差別化してこないといけなくなったっていう意味では
ある意味カード切ってきたなって感じはしますし
それだと今後どうなっていくか
興味深いところではありますね
現実の街中
特に商業地とか都心部とかで歩いていると思うんですけど
アニメとかの細身のなよっとした感じで
イケメンみたいな感じのキャラっているんだけど
そんな感じのルックスの人が
商業施設の女子トイレに出入りしてるのをたまに見るんで
ああいうキャラクターってそういう造形でやってんのかなとか
コスプレの目で見ると
男性キャラってことになってるけど
女性が着るっていう想定で作ってるのかな
みたいな服とか身なりとか髪型のキャラも
結構多いなとは思うので
そういう意味だとジェンダーじゃないけど
何かアニメ的な意味の
基本は女性・女の子あたりをベースに
属性を足すなり削るなりみたいな感じで操作して
男の子・少年・男性キャラを作っていく感じなのかなって気はしますね
多分
書き手が女性が多いから
そういう発想になってしまうのかっていうの
ちょっと興味深いところであるんです
そこはどう掘り下げていいのか
僕もわかんないですね
ジェンダーとかそれとはちょっと違うかな
カギカッコ付きの「ジェンダー」だよね
今世間一般で言われるところとは
またちょっと違う部分の
プリキュアという名前でやってるかもしれないけど
変身して特殊能力で戦うキャラクターっていうのは
古くからもいたんだけど
それをシリーズの中で入れるっていうのは
新しいっていうぐらいだと思います
このキュアウィングについて
もう一つ言われてたのが
男の子ってのもあるんだけど
異世界の飛べない鳥の人間体なんですよね
この飛べない鳥っていうのを
上手いこと使ってきたなと
ネットで見ると色々評論も出回っているんですが
同じ論考が昔からあるので
これを紹介しようと思います
宮台真司の
「世紀末の作法 終ワリナキ日常ヲ生キル知恵」
というコラム集です
それに収録されている
「それでも私たちは社会を生きなければならない。なぜか?」
という文章に書いてあります
これ自体は1996年6月の月刊誌の記事ですね
冒頭こう書いてあります
というところ始まります
その次の小見出しは
本文を見ると
この端的なものに対して
「『端的なもの』に向き合わない作法の広まり」
という見出しがついて
それをちょっと端折って紹介すると
1980年代にオウム真理教を含めた
新興宗教のブームが起きたんだけど
その中で多くの若者が
露呈した「端的なもの」の孤独に向き合い
それをどうやって受け入れるべきか
悩むようになったのに
誰も教えてくれない状況になって
なんで自分は自分なんだ?という
嘘学校や嘘家庭が教えてくれない問題に
新興宗教がか答えてくれた
ところが1980年代というのは
このような新新宗教に出会えるチャンスがほとんどなかった人が多く
みんな「端的なもの」に気づくようになったのに
「端的なもの」を突き付けられて傷つかないように
気づかないふりをしていた時代だと
だからお互いが傷つかないように
前もって防波堤を作ってコミュニケーションするようになり
ノリを壊さない気遣い・優しさに満ち溢れたコミュニケーションがそれだと
ここからがテレクラの研究・調査をやっている
宮台真司らしいんですけども
「親密な人間には親密な話ができず、
疎遠な人間であるほど親密な話ができる」
という逆説が生まれ
これが1980年代半ばに誕生した
「テレクラ的コミュニケーション」で
「名前を欠いた存在」となることで「自由」になる
それは自分の名前と結びついた「端的なもの」を
きれいさっぱりと捨てられるから
そして自己防衛のために
「ノリ」を壊さないように注意深くなるほど
「端的な存在」としての他者は
視界から消えてしまう
「自分を守る」ために
意識的に「他人に踏み込まない」コミュニケーションから
「他人を人間と思わないコミュニケーション」へは
あとほんの数歩だと
他人は「ただの風景」で
自分のしたことも
どこか「他人ごと」になる
ただここに対して
「社会を成り立たせないといけない理由」はあるのかと
ということなんですね
だからもうこの時点で
ここら辺は今だったらメタバースとか
バ美肉とかに通じる論点なんですよね
だからバーチャルな繭の中でまどろむっていうのは
メタバース的なんです
これを当時の宮台真司は
オタク的な方向と呼んでたんですが
これと
「街の記号に溶け込むコギャル的な作法」
という二分法で
若者が二極分解していると
ただ両方とも
現実の中で名前と結びついた「端的なもの」を捨てる
「私消し」「自分消し」という点でで共通している
とはいえこんな中で都市的空間やバーチャルな空間の中で
「端的なもの」を忘れてまどろむようになっても
「まどろめない自意識」を抱える人間がどうしても残る
じゃあそのような人たちが自意識の軛を逃れられるんだろうか
ということなんですね
これは四半世紀以上前に書かれた文章ですけども
現状
出てるかなっていうのはほんと思います
これが冒頭のキュアウィングの話と
どう結びつくかっていうと
このキュアウィングいうのは
もともと飛べない鳥っていう存在なわけですよ
人間形態に化けられるんだけど
飛べない鳥っていう「端的なもの」というものと
ある種の軛なりアイデンティティ
自分のもので変えられないものっていうものを
そこで象徴させてるわけですよね
それで変身すると
何と飛べるようになってるって
描写があるんですけど
そこで軛から解放されるっていうのは
一つのメタファーになってますよね
そういう意味では「端的なもの」を
上手いことを使ってきた
そういう形で描写を使ってきたなって
僕には見えてですね
これは興味深い問題だと思ってます
そういう意味だと
今年のプリキュアで面白いのが
例えばましろが変身して
キュアプリズムと名乗るようになっても
相変わらず「ましろさん」と
呼ばれてたりしてた時期がある
というのもポイントですね
こういう属性というか
もしくはアイデンティティ
もしくは今回紹介した文章にあるような
「端的なもの」という目線で見ると
意識的に脚本家がそういう要素を入れてきてるのかな
という意味で今年は脚本が面白いんですよ
話の進行は情報量とかやるお約束が増えてるんだけど
上手いことできているというか
稲田豊史の「映画を早送りで見る人たち」
という本にもあるんですが
最近の脚本家目線で言うと
以前に比べると情報量が増えてるっていう話があって
いろんな要素を一つまとめるというか
そこら辺のストーリーエディティングは
緻密にやってる感じはしますね
話の進行とは別に
これを踏まえると
キャラクターって確かに属性とか
情報の塊でしかないんだけれども
嘘の存在ではあるんだけれども
嘘だからこそ嘘をついていけないって
側面があるんですよ
他のところで円谷英二が
「我々は噓を撮っているのだから
嘘をついてはいけない」
とスタッフに語ったとされる
逸話があるそうなんですけど
それによく似てるんですよね
情報とか属性だっていうのは
確かにある意味
嘘でもあるんですよね
だけれども実際生身の人間として見た時に
存在するっていう事実が認識できるっていうのは
前提として認めないといけないと思っていて
哲学的な議論は
ほんと必要だと思うんですよ
そこら辺は面白いところで
多分メタバース化になっちゃうと
やっぱり世界なんてやっぱそういう塊になってしまうんで
本当にその画面の向こう
もしくは聞いてるヘッドホンの向こうで
生身の人間がしゃべっているというどころまで
意識を持てるかっていうのは
考えられなくなってきている
というのもあるのかもしれないですね
正直言うと
普通に電話でしゃべっていても
本当にそういう人が喋ってるのかな
AIと喋っているのかな
みたいなこともあったりするけど
「トゥルーマン・ショー」って映画がありましたけど
感性があんな感じになっちゃうんでしょうね
例えば食事の時に白いご飯あるけど
これ米粒だけど本当にこれ稲の粒なんだろうか
何か別のデンプンのの塊なんじゃないだろうか
一個一個とかねそういう目で見てる人が出てきてもおかしくないんですよ
何となく
これまでこうやって生きてきて
問題ないと
これはこうだっていうのだろうと
実績と事実性の積み上げでやってきたのだけれども
これって結構
脆弱なものでもあるし
「端的なもの」っていうか
ある種の軛があるっていうことと
そこから逃れるっていう話は
結構大きいんじゃないかなぁ
僕なんかもIT業界で
ある意味形のないもの触ってる
目で見えないものとかあるから
信用できないって言われちゃうと
結構きついんですよね
端的に言ってしまうと
例えば電話会議とかZoomとかで
一応カメラとかオンにして顔出してるんだけど
本当にいるのっていう
多分いちいち合成やフェイクを作るのは
演算コストがかかるから
多分そこまで細工する方が大変だと思うんですけど
逆にそういう細工のコスト下がってくるようになると
果たしてそういう知的労働に関して
我々人間がやる必要があることって
どんどん減ってくよねっていう議論があって
つまり仕事がなくなっていく
特にホワイトカラー系の仕事がなくなっていくという
未来予測が出てきてる中で
経済的な理由としては大きいんでしょう
やっぱり実存的なことも気になってくるわけですよね
こういうこと言われだすと
これを考えるこういう話も出て
繋がってくるくらいで
結構これは大きな話題だと思いますよ
こういうのって高がアニメかもしれないけど
まあ興味の話ですね
だけど
ちょっと違った目で見て考える必要もあるかもしれないし
子供からすればああいうのは
画面の向こうの出来事だって
割り切って見てる部分もあるかもしれないから
そういう意味で自己無関連化して見ているというのは
意外と多いんじゃないかなと思うんです
作ってる側の人間も
こっちの世界の人間だって前提で話しちゃうと
そこにはそのある種の作り手の
哲学だとか価値観だとか思想みたいなものが
どうしても入ってきちゃうわけですよね
それまでの人生経験も含めて
そういう意味だと演出家や脚本家といった
作り手の考え方が感じられるって面白いですね
今年は意外と持って生まれたもの
もしくは変えられない過去みたいなものっていうのが
裏のテーマになってくるんじゃないかなと思うので
今年のプリキュアは見てて面白いですね
大人か見ても
ある意味社会派なことを気にしてる人から見ても面白いですよ
逆に去年とか脚本がつまんなかったですけどね
そういう意味で今年は
これはこれで結構面白いと思いますよ
ましろと一緒に住んでる祖母が
異世界人だったってのを
意外とあっさり祖母本人がばらしちゃいましたしね
面白いもんですよね
だから異世界人っていうのが
ある意味何かのメタファーだと思うんですよね
そんな気がします
この辺は隠された意図とかあるって
言うとちょっと深読みしすぎだと思うんですけど
何かしら
そういう象徴してみると
今年は結構発見あるんじゃないかと思いますよ
というわけで今年のプリキュアのキュアウィングの話と
メタバース社会的なものっていうのは
実はある意味その一つの線で枠組みはとしては接点があって
それ自体は既に90年代中頃から
同じ問題意識を持っていた人が指摘していたっていう話でした
後記
結構壮大な話だったな、と思う。
文字起こしだけで7000字オーバー。
まさか1980年代中頃のテレクラで生まれたコミュニケーション様式の話と、2020年代のメタバース社会の問題が地続きであり、共通して横たわる「端的なもの」の問題を正面から題材にするアニメがある、というのはなかなかの衝撃ではなかろうか。
2ヶ月ほど前にアップした↓の拙稿の問題意識がますますクリアになった気がする。
もう一つ思ったのは、やはり宮台真司先生は強い!
テレクラや援助交際の調査を通じて、30年先に通じる問題意識を持っていた、見通せる枠組みを用意していたというのは驚く他ない。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?