
Photo by
meel
自分の嫌悪感から脱却できず、自らで対峙すべきところを社会問題に投影し誤魔化す姿勢に喝!
ちょうど同じくらいのタイミングで重なるとはおめでたい。
どちらも背景にあるのは、自分の嫌悪感から脱却できず、自らで対峙すべきところを社会問題に投影し誤魔化す連中の動きだ。
これに関しては古くから同じ構造で燃えるエピソードには事欠かない。1990年に盛り上がった有害コミック規制は典型例だ。
下のページは宮台真司「透明な存在の不透明な悪意」(1997年)のページだが、個人の情緒的発散の問題と地方政治家の実績づくりのモチベーションが悪魔合体した分かりやすい例だ。
その背景にバブル経済崩壊後の不安な世相と経済的な再分配のパイが細る中、選挙民の不安を票田に転換する戦略の相対的な有効性が増したことがある。
一方で同時並行的に進んでいたリベラル化という名の左傾化の中で、この傾向は足許レベルで強化されていく。
薬害エイズ問題で小林よしのりが批判したのも、社会問題の解決と言いながら、自らのアイデンティティもしくは存在理由(Raison d'être)を己の活動に見出して自己目的化する点だった。
このようにして、個人の情緒的発散→社会運動・活動の動き→世論に迎合する政治家、という構造が完成するのであった。実にバカバカしい話だ。
繰り返す。
不安や不満を煽る、掻き立てるような言説の裏には、発話者の政治的な動機があることを忘れてはならない。
そして、弱者や被害者の政治利用で歪められた事柄もある。いわゆる弱者権益と左翼利権のもたれあいだ。「弱者の言葉」を真実として受け止めることによる思考停止を戦略として利用してきたのが、「市民」を自称する左翼勢力であったことを忘れてはいけない。