※500文字でツッコミが終わらないので記事にしました。
女は己を人間未満と規定しながら社会にタダ乗りする
「子どもを産むことが人間ではない証拠」という空気すら漂う、昨今のフェミニズムですが、確かに上野千鶴子は「産む自由」を否定していました。
そして宇野常寛の言葉を借りれば
という、社会へのタダ乗りを肯定する人間観が広まっている。
そういう中で今回の白饅頭日誌のおかげで、去年末からちょこちょこ書いてきた拙稿の問題意識がクリアになってきた気がします。
神田沙也加の転落死で感じた「母親になりたくない女」というあり方。
生物学的に母親になっても人間としてクズなら母親の資格がないこと。
そして拙稿で何回か引用した、フランスの哲学者、ミッシェル・フーコーの「近代産業社会が個人を健全な市民として包摂する条件」は、「当該社会において認められる種類の生産労働に従事し得ること」か「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」のいずれかであるという指摘。
今回のローマ教皇のご発言は「当該社会において通常とされるかたちの家庭を営み、子どもを産み育てることができること」を社会が評価しないどころか、個人的な苦痛に矮小化して考えられていることを暗に批判していると解釈できます。
女性の(東浩紀的な意味での)"動物化"
ついでに「今だけ、自分だけ」良ければいい思想としての「個人主義」も批判しておきます。
東浩紀曰く。
元旦の白饅頭日誌で指摘されていた、女性の責任回避的なコミュニケーションというのは、この動物的な特徴なのです。
兎にも角にもリスク回避第一という"価値観"、その結果としての目先の損得にこだわる刹那的な行動原理(朝三暮四!)、これらの合わせ技としての"動物化"です。
尤も、女性は己が生物学的な意味で動物であることを意識させられる契機が生理的にある、ということも忘れてはいけません。
だからポストモダン社会では、女性の動物性が目立ってしまうわけです。