嵐『未完』MVとボルタンスキーの《合間に》 - 過去と現在の曖昧な境界、そして未来へ
嵐の2017年アルバム『untitled』のリード曲「未完」。アルバム特典として撮影されたこの曲のMVは、先日発売したビデオクリップ集の初回限定版に収められている。
改めて『未完』のMVを見ていて、昨年大阪の国立国際美術館で見たクリスチャン・ボルタンスキーの回顧展「クリスチャン・ボルタンスキー − Lifetime」で展示されていたあるひとつの作品を思い出したので、覚書きしておく。
(トップ写真は以下リンク「文化庁広報誌ぶんかる」からお借りしました)
※ここからの話は、個人的にこの2つをリンクさせて考えると面白いというこじつけ話ですのであしからず。
境界としてのカーテン
連続性を意識された構成となっているボルタンスキーの展覧会の中でも、最も最初の導入の段階で現れるのが《合間に》(2010)だ。ストリングス・カーテンに、ボルタンスキー自身の幼少期から壮年期に至る顔写真が映し出されるインスタレーション作品となっている。(大阪での展示の様子の写真は、以下のURL記事内に詳しいです)
嵐の『未完』MV内でも、ストリングス・カーテンにメンバーの顔が映し出される演出が全体の映像の多くを占める。カーテンに映像を映し出すこと自体は珍しい手法ではないかも知れないが、映るのが「ほぼ顔のみのアップ」であるという点、暗く狭い部屋の向こう側へとつながる「境界」としてカーテンが使用されているという点に類似性を強く感じた。
人生及び人の曖昧な境界線
嵐MVにおける監督の意図したテーマは「二面性」だという。「光と影」「虚像と実像」。これらのテーマは、実物だと思った顔が、カーテンに映し出された映像にすり替わることや、カーテンの向こう側の自由に踊る広々とした空間と思っていた場所が、合わせ鏡に囲まれた狭い空間であることなどでも表現されている。
ボルタンスキーはある種の二面性、生と死、在・不在を大きなひとつのテーマとしているアーティストだ(と思う)。私自身が作品≪合間に≫を前にして感じたのは、「個々の人生のどの地点も不明瞭な「境界」でしかない」という感覚だ。人生のステージからステージの間、年齢と年齢の間、そして生と死の間にも、明確な境界などはない。さらに言えば、自らの顔をくぐることで、自己の「内面と外面」の曖昧な境界を示されているようにも感じられた。
嵐のMVでも、カーテンに写される5人の顔は、あくまでも「その時その瞬間」のものでしかない。境界としての肖像の向こう側は過去か、それとも個々の内面か。いずれにしても、あくまでもメンバー「個人(I)」と女性ダンサーという「他者」との流動的で不安定な関係性として表現されている。
戻れない過去
ボルタンスキーの展示構成は、出発点(≪Departure≫)から始まる「一方通行的」なものだ。≪合間に≫のカーテンも、これをくぐることで先へと抜け、そして戻ることはできないという、人生の不可逆性を感じさせる。
嵐の『untitled』というアルバムのリード曲として、今なお道半ばであることを示す『未完』。この曲の歌詞は「戻らず進め」「過去を振り返るな」と訴える。
終わりの見えない人生、常に自らの境界というカーテンをくぐりぬけ、定かでない未来へと進んでいく。
過去を振り返っても、戻ることはできない。それでも人は、虚像と実像の入り混じる過去、過去が作り出した自らの内面をついつい省み、そして惑う。そんな心の揺れを、不規則に奥と手前を行き来するカメラワークが示している。
人生の「今ここにいる」という不確かさや、過去に対する疑心、未来に対する希望と不安の入り混じった感覚を表現する上で、ふさわしいセット・演出になっていると感じた。
嵐の「未来」の方向
カーテンの奥と手前の行き来を繰り返していたMVの最後は、それまで存在を隠されていた、より手前の「明るいカーテン」の向こう側にいた実在の5人のカットで終わる。
実像と虚像が入り乱れる顔のカーテンの「奥の空間」が「過去」だとすれば、メンバーたちの顔が向いている正面、つまり「手前側」に「未来」があったことが、最後に明かされる。
カーテンの奥にある個々の過去(自己の内面)、何もない誰もいない空間という不確かな現在、手前の明るいカーテン向こう側にある5人の未来。
不確かな境界をくぐり抜けてきた5つの未完成な「I(個人)」が集まった時「集合体としての嵐」が未来に向かって輝き出すのだ。そして、彼らがいる場所は、明るいであろう「未来」。曲は”俺たちに乗って(未来へ)行くか?(Do you wanna ride?)”と聴き手に誘いかけて終わる。
嵐のLifetime、いずれ来る「完」はまだまだ先であれと、一ファンとしては願う。