大石定治 インタビュー記事
ご無沙汰しております。やいまぬむじかです!
今回は6月13日(土)20:00に配信する「大石定治」(おおいし・さだはる)さんのインタビューを行いました。
個人的に前々から仲良くしていただき、よく一緒にお酒を飲んで長らく話したこともある定治さん。
恰幅のいい大きな体と笑い声、誰よりもまっすぐに愛情表現をする人情味あふれる定治さんの奏でる民謡のような黄金言葉(くがにくとぅば)に耳を傾けながら、楽しくインタビューをさせていただきました。
※黄金言葉(くがに・くとぅば)…黄金のように価値のある言葉。金言。
なお、今回は八重山民謡という特徴的な文化に触れるインタビューのため、昔から八重山に伝わる八重山方言や、ことわざなどがよく出ているため、注釈して解説しながら文章を書いていきますね♪
まずインタビューをするにあたり、定治さんから、石垣市登野城にある「OASIS」(おあしす)という食堂をおすすめしていただきました。
以前は八重山病院内で出店し、島中の人たちが愛する人気のおそば屋さんでしたが、八重山病院の移転に伴い現在の登野城市街地に移動しました。
店主の小浜崇さんと妻・由佳里さん。仲睦まじい二人が作る特製の出汁に野菜のうまみが120%溶け込んだ野菜そばは、定治さんの大好物!
普通サイズでこの大きさの野菜そば!大ボリュームで¥750♪
「いっつもいろんなの食べたいんだけど、結局野菜そばを注文しちゃうんだよなぁ」と、もう病みつきのご様子。
※定治さんが大きいのでいつもより少しおそばが小さく見えます(笑)
おなか一杯になったところで、定治さんに今回のインタビューを切り出します!
地域のためにやってよかったな。
~三線を始めたきっかけ~
●まず、生年月日と出身地区を教えてください。
1980年9月13日、大浜の海沿いの家で生まれたさー。
●音楽始めたのは三線が最初ですか?ギターとかですか?
ギターはやってたけどよ、ギターは中2くらい…でももう辞めたど、もうやってないけど、長渕剛さんが最初。
●長渕さん!ロン毛の時ですか?
そうそう、「トンボ」とかな!
●中2でギターを初めて、何かのきっかけで三線になったんですか?
三線は青年会入ってからだなぁ。
●青年会入ったのはいつぐらいです?
22歳くらいかな?
●そこから、先輩から「三線やって」って頼まれたりしたんですか?
いや、あれわけよ。ガンマリー(いたずら)で触ってたさー。
して、曲はずっと周りで流れてるから、自然と耳に入ってくるちゃう。
耳に入ってくるから、自分なりに自己流でやってたわけよ。したら、そのうち自分が営んでいるお店に三線の先生が飲みに来てからよ。でも、先生って言っても(自分からしたら)村のおじさんさぁな。して、「お前三味線やってるんだよな?」って言われてからよ。あの時先生の前で、「うん。」って言ったわけよ(笑)
そしたら、「今から弾いてみれ」って!
●こわっ!(笑)ちゃんと流派をもって三線をしている、しっかりした師範の前で自己流の三線を披露するなんて…!
そしてよ(笑)、ツメがあるちゃう?あれ持って弾けなかったわけよ。
あの時、できなかったからこの爪楊枝を…こんなして!
指にセロハンテープで巻いてよ(笑)!
先生に向かって「ちょっと準備があるんで待ってください!」って言った(笑)
●ハハハ!!(笑)
まーる(とっても)怖いもの知らずさ、だから!(笑)
あの時はデンサー節かな?一曲弾いたあとに先生が、「弾き方なんかはいいけどよ…明日から習いに来い」って言われてよ。あれからが先生のもとに通ったさ。それからちゃんと習ったなぁ。
●先生と出会った、この時は22歳ですか?
いや、これはよ…26くらいかな?
●青年会に入ってしばらく経ってから三線を始めたんですね。
そうそう。
●もっとずーっと昔からやってたと思いました!
まだ遅いさー。でも他の三線弾きの人はデージ(とっても)小さいころからやってるさー
みんなだいたいあんな感じだろ?芸能やってる人は小さいころから、みたいな…。でも俺は違うわけよー。
青年会の時によ、発表会とかで踊りやるさ。その時白塗りの舞台化粧があるだろ?
あれが嫌でよー(笑)!顔がかゆいわけよ!口紅なんか塗った時ないのに塗るさーな!
したら水も飲めない…口紅がつくからよ!ただ黙って座ってるさ!暑っつい中!
そしたら、「化粧やらんから地謡(じかた)のほうがいいな」って思ってよ(笑)
それで三線を目指したさ。三線は後継者が少ないってのもあったけどよ。
※地謡(じかた)…民謡において、楽器を演奏、もしくは歌を歌う役割。踊りと地謡に分かれる。
でも、三線は習ってすぐ弾けるってわけでもないさ、デージ(とっても)年月かかるわけよ。
でも、やってる内に地域のためにやってよかったなーってのは思ったな。
26歳、最初は興味から入った三線への道。
しかし定治さんは11年後の2017年(平成29年度)八重山民謡の代表曲で無形文化財にも選ばれる名曲「とぅばらーま」の大会で、頂点に立つこととなります。
「やってこい。どんどん出れ。」
~大きく優しい師匠からの言葉~
●八重山民謡の代表曲、「とぅばらーま」の大会でチャンピオンになった定治さんですが、「とぅばらーま」をやろうと思ったのはいつ頃ですか?
最初っからさ、三線を始める前からかな。あの時からとぅばらーまが大好きでよー。「この曲は絶対唄いたいな」っていうもので、習い始めからよ、「これやりたい」って先生に言ったけど…。一番難しいものさ(笑)
●普通の「とぅばらーま」と、自分で歌詞をつける「とぅばらーま」があるじゃないですか。定治さんはどちらで優勝したんですか?
普通の!(歌詞は)応募したけど落ちたよ!(笑)
●定治さんでもできないなんて、相当難しいんですね!
デー(大変)ど!あれ!何千通って応募が送られるさ!だから良いのはいっぱいあるわけよ、あるけど、最優秀1つ・優秀2つ、佳作…。(入賞するものは)5つくらいしかないんじゃないか?だからもうデージ(大変)。激戦さ、もう。
●とぅばらーまはどの村で生まれたんですか?
アコウギのところで生まれたって話だな。平真地区のとこ。
仲道路(なかどうみち)って言ってよ、方言ではナカドウミツィ。
あれが、代表的な「仲道路から七けーら通うけ」って歌詞に出てくるな。
※近日中に民謡曲の解説記事を出します!お楽しみに♪
※とぅばらーまが生まれたというアコウギの「とぅばらーま記念碑」。
村で評判の美人に会いに通っていても、会うことすら叶わない青年たちが、
愛しさを即興で歌い始めて「とぅばらーま」が生まれたという。
●とぅばらーまが好きで、練習して…ってことは一番難しいものから練習していたんですか?
いやいや、別の曲でも賞があるちゃう?あれの曲を練習して、新人賞・優秀賞・最優秀賞・教師まで獲ったさ。
●すごい…。
デー(大変)さ、もう!俺はやり始めたらあったまる(熱中する)人さ!
夜11時に仕事が終わって弾き始めたら気付いたら朝4時とかよ。そのくらいずーっと弾いてたさ。三線が楽しかったよ。今も楽しいし。
あの時は、んで…世間知らずさ、怖いもの知らず(笑)
●先生の前で爪楊枝巻くくらいに!(笑)
そうそう!(笑)してよ、西表のデンサー節大会っていうのがあったわけよ。
デンサー節も好きでよ、昔から実家はお店やってるから、オードブルなんか作ってたら、揚げ物をキッチンでずーっと作ってるちゃう。あのとき母親が、チャー(いつも)唄ってたわけよ。
それで、「これなんて言う曲ばー?」って訊いて「デンサー節」って教えてもらってよ…。
天ぷら揚げてるときはお客さんに追われんちゃう?何時までにって予定があるだけだから…。歌う余裕もあるから、デンサー節をちょっと覚えて。
覚えたと思ったら俺、すぐ電話やるさ。
●先生にですか?
いや!大会に!(笑)
俺応募してよ、先生に「やっていいですか?」って言ったら
「やってこい、そういう所にはドンドン出れ」って。
●いい先生ですね。
そして出たけど周りの人は年上ばっかりで誰もわからんさ(笑)。予選があるけど、今度は立って唄うのも難しいわけよ!
三線はギターと違ってストラップ無いっちゃう?だから立って唄えんさ。
審査員によ、「すいません、ちょっと立って唄えないんで座っていいですか?」って言ってよ。おばあちゃんも出場したりするから、椅子に座ってもいいわけよ。
それで椅子に座って、あの時ツメも持って行ったけどよ、ツメ持ったら上手に弾けんかったからよ…。また爪楊枝(笑)
●ハッハッハ(笑)
そしたら落ちるさ!(笑)
あのときは誰もわからんかったけどよ、あれから新人賞・優秀賞…とか頑張ってたらよ、
当時一緒に大会に出たおばあちゃんとかが仕切ってるばーな!
今気付いたらよ、あの時の人たち、みんな先生だった!師範とかよ!(笑)
●こわ~!!(笑)
その時のことを先輩と話してたら、「怖いもの知らずの時が一番楽しいどー」って(笑)
怖さをわかったらよ、身構えてしまうちゃう。
「うわー、失礼があったらデージ(大変)!」とかよ…。でもあの時は関係なかったさ(笑)
●いい思い出ですね(笑)
先生たちも昔から知ってる、村のおじーたちさ、だから俺も「先生」って呼ばんわけ。
長浜寛(ながはま・ひろし)さんって言うさ。
俺の親の2つくらい上で、昔から寛おじーって呼ぶから、今でも舞台に上がった先生に向かって俺だけ「寛おじー!」って呼ぶど(笑)
中央が定治さんの師匠・長浜寛さん。
●とぅばらーまの作詞をするときに大事にしてるものはありますか?
最近よく歌う、「戦のとぅばらーま」は「とぅばらーま集」って本から拾ったわけよ。
「戦のとぅばらーま」とか、「ばっかいとぅばらーま」とか…「ばっかい」はちょっとエッチなやつさ(笑)
あとは「ぬーとぅばらーま」(畑のとぅばらーま)とか、生活のとぅばらーま…
歌詞の内容によっていっぱいあるわけよ。
友達の結婚式の時は、自分でとぅばらーまの歌詞書いたりするさー。
自分で作るときは、昔言葉もちょっと入れるさ。今までの自分は子どもさ。まぁいつまでも両親からしたら子どもだけどよ。
「結婚して自分の子供が生まれてから、今になって、親の難儀さとか有難さもわかってくる」っていう言葉があってよ。
「子ゆー産し、親ゆ成りてぃ、
親ぬ習しょーだ言葉や、今どぅ思ーり」。
(音読:ふぁ ゆーなし うや ゆ なりてぃ、うや ぬ ならしょーだ くとぅば や、なま どぅ うもーり)
(意味:子を産み、親になって、親の教えた言葉は、今になってわかる)
これは後輩の結婚式の時に作ったのさ。新郎新婦入場の時に唄ったさ。
式の前に新婦のお父さんが亡くなってさ。俺はそのお父さんからも料理習ってたからデージ(とっても)思い入れがあるわけさ。亡くなる前に自分のお店のオープンも手伝ってもらったんだけど、だからこそ、この歌を唄った。
当日はもう新郎新婦見て唄えないさ。生演奏なのに、二人を見たら涙が出るからよ。
もうずっと下向いて唄ってよ、あとからチャー(たくさん)泣きー…。
この歌詞も応募したさ。賞は取れなかったけど、でもこれは個人個人の想いだからよ。
応募された歌詞は全員いい想いを込めてると思うさ。だけど、歌詞は言葉の面白さ、背景が浮かんでくる、言葉遣いとか、例えを方言でやるとか…だから難しいわけよ。
●文学みたいなものだけど、想いを唄うものだから、誰に認められたとかは関係ないんですね。
そう。とぅばらーまは、「いずすどぅ主(ぬす)、すくぃすどぅ主(ぬす)」って言ってよ。
「歌う人が主、聴く人が主」って意味なんだけどよ。本当はチャンピオンって決めるもんでもないさ、とぅばらーまは。
みんなで共感するのもいいけど、自分にドンって当てはまる部分があるんだったら、聴いている人のための歌でもあるさ。これがとぅばらーまの「見て」「聴く」カルチャー。
マナーみたいなもんじゃないかな。人と比べる必要もない、っていう。
●伝統を継承していく中で、今でも印象に残ってることはありますか?
今だなぁ、40代。人生半ばでさ。地域の中でも大体真ん中の年齢くらいさ。
だから、今が一番頑張り時じゃないか?今まではずーっと後輩で、先輩に教えてもらいっぱなしで。今は中間で、先輩から習って、後輩にも教える、っていう中にいる。
先輩に、「若い子は時間かけれ」って言われたわけよ。
どんどん年齢や技術を重ねるにしたがって、仕事も何もかも早くできるようになるさ。
だけどよ、今から勉強する若い人たちは、これから先の人生もたくさん時間があるさ。だから若いうちは時間かけていろんなことやって勉強して育てよ…って意味でよ。こういう言葉を言ってもらったときは最高だったな。
他にも、「思い切すどぅ、まいふなー(うむいきすどぅ、まいふなー)」って言葉があってよ。
「何をやるにしても思いっきりやる人がお利口さんだよ」って意味だけどよー。
●これは寛先生の言葉ですか?
ううん、地域の先輩だけどよ。「思い切すどぅ、まいふなー」ってのは、ことわざみたいでよ。先輩もまた更に先輩から言われたらしくて。
「若い子は何でも思いっきりやるのがまいふなー(お利口さん)ど。ボーレー(上等)ボーレー(上等)」ってよ。
こんな素敵な人たちの中でよ、俺は先輩と飲むのも好き、後輩と飲むのも好きさ。先輩の先輩から教えてもらってるし、先輩たちって、言葉で伝えてくれるさ。本で書いて伝えてもいいけど、やっぱり言葉で、面と面向かってな、細かく噛み砕いて教えてくれたらわかりやすいちゃう?あんな感じだな。
●上の人達としっかり顔を合わせて、いい言葉をもらって、同じように伝えているんですね。
ちょっとした言葉ちゃう?「思い切すどぅ、まいふなーどー」って。
青年会でも、後輩たちに「イベントでもやりたいと思ったらいつでもやれー」ってチャー(いつも)言うさ、俺。
自分たちがやってきたことをもう一回させたいんだけど、失敗が少なくなるようにちょっとだけポイント教えるさ。でもあとはもう言わない。自分たちのやりたいように、自分たちらしいカラーは出せなー。だけど、上手くいかない時はこうしたら、ちょっと上手くいくどーって。
手放しすぎたら、俺が失敗したことを後輩がやるかもしれんさ。あんなやったら足踏み状態で、良くなっていかないさ。
もう一歩よ、後輩がもう一歩先に行くようにアドバイスして…そうやったら俺たちよりちょっと上手に行事も、イベントもできるちゃう。
次に後輩たちが「あいや、こうした方がよかったなぁ」ってなったらまた教えて、
もう一歩一歩行けばどんどん上等のができてくるさ、形にしても、いろんな舞台にしても。
いろんなことは経験して学ぶものだけど、
戦争だけは経験しないで、聞いて理解しないといけない
●今音楽を通して伝えたいことってありますか?
やっぱり戦のとぅばらーまだなぁ。今の時代、自粛ばっかだけど、俺ん家には90になるばーちゃんがいるさ。やっぱり、ばーちゃんはドンと構えてるわけよ。コロナのことで全然驚いてないさ。ただ座ってテレビ見たり、何も怖がってないさ。
ばーちゃんたちの小っちゃいときなんか…戦争のときなんかは、避難のために家から出て、防空壕に逃げるさ。避難したら、またそこでマラリアみたいな恐怖がある。
今は電気も水道もガスもあるから自粛なんか簡単なもんさ、ばーちゃんからしたらよ。
だから今、戦の歌を歌うってことは、自粛生活の中でも、勇気づけられるって思う。「戦争と比べたら、楽なもんだよ」って。ばーちゃんたちは、命守るために出ていくわけで、出たらそこで感染症にかかって死ぬかもしれないし、帰ってきたら家は燃えて無くなってるし…。とか。
もう自粛生活とかよ、簡単なもんに見えるさ、ばーちゃんからしたら。
だから戦を唄うのは…そんな意味もあるし。
戦争をわからん世代が多くなっていくさ。言葉であんなに伝えて「怖い」ってわかってることを。
サッカーとかバスケは”経験“しないと上手になれない、プロになれないさ。それでも戦争だけはよ、聞いてわからんとだめさ。経験してはいけないさ。
いろんな国の人って、一人一人会えばよ、めっちゃ素敵な人ちゃう、「人」って。
でも戦争になったらこの人たちと殺しあうことになって…。そういうものが俺の唄うとぅばらーまなんかには含まれてる。
「大人 高人 なりでーどぅ育てぃきぃだ、腹ぬ底から我なや恨み」
(音読:うふぴとぅ たかぴとぅ なりでーどぅ すだぃきぃだ、ばだぬくす から ばなや うらみ)
(意味:心も体も大きく、学問もできる人に育ててきたのに。腹の底から戦争を恨む。)
もう一つ、戦のとぅばらーまを作ったさ。
「戦世どぅ我な恨み、人ぬ親子散り散りなしねーぬ」
(音読:いくさゆーどぅ ばなうらみ、ぴとぅぬうやふぁ ちりぢりなしねーぬ)(意味:戦の世を私は恨む、親子は散り散りになってしまった)
いろんなことは経験して学ぶものだけど、戦争だけは経験しないで聞いて理解しないといけないさ。
●あなたにとって民謡とは?
教訓かな。
生活の一部でもあるさ、癒しでもあるし、めっちゃ勉強させられる部分もあるし…。
昔の時代には生きてないさ俺たち、時代の背景とか、生活とか、想いとかを教えてもらうのも、やっぱり人と人とで教えてもらうことで、自分一人では勉強できないちゃう。
レコードを聞いて歌を練習しても、ただそれは歌を覚えるだけさ。歌の内容を、昔の生活をしていた人から聞けばもうちょっと味が出るさ。土臭さを出せるような、な…。
人生の勉強だな。自分がまだ生まれる前の時代の勉強でもあるさーな。
編集後記
インタビュアーとして顔を合わせ、お話をしていると、文化と音楽を愛し、一人の唄い手としてこの島を愛する島人・大石定治さんの愛情と情熱を強く感じる素敵な時間でした。
このインタビュー記事の中では、そんな定治さんの人情味や優しさを表現できたら、と試行錯誤し続けています。
どこまでも誠実な定治さんだからこそ奏でられる音楽を、配信を通して皆様に伝えることができれば幸いです。
大石定治 (おおいし・さだはる)
1980年9月13日生。石垣市大浜出身の民謡歌手。
22歳で大浜地区の青年会に入会し、八重山民謡や行事などの文化保全に尽力している。26歳の時に石垣市・長浜寛先生に三線を習い始め、37歳で石垣島の無形文化財でもある代表的民謡曲「とぅばらーま」の大会で最優秀賞を受賞した、八重山を代表する唄い手。
美しく伸びやかな声の実力でファンを多数魅了しながら、柔らかな笑顔と誠実な愛情をもつ人柄で、老若男女問わず愛される「ステージ降りても人気者」。持ち前の明るさと、お酒と歌と三線で島中を盛り上げる。
インタビュアー:うちま☆ひかる
(名前を押すとtwitterが見れるよ!)
1995年2月4日生まれ。故郷でもある沖縄県石垣島にてCafe & bar 山内ツル子で店長を務めながら、さくさく読める超面白い文章を書くライター。超絶イケメンで英語が喋れる。他にもカメラマン・俳優・ギタリストと多岐にわたる活動を始める。趣味は音楽・映画鑑賞。ハチャメチャにお酒が好き。写真は18歳の免許証。
協力店:Cafe & bar 山内ツル子
(名前を押すとtwitterが見れるよ!)
石垣市大川269-6”一平寿司”一階
Cafe11:00~17:00 / Bar20:00~25:00落ち着いた証明と音楽で会話を楽しめる隠れ家的なバー。オーナーのyoshitoo!さんの生演奏が聴けるかも?!