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読書感想:書き終えた小説を読み返さないということ〜村山由佳「PRIZE プライズ」(ネタバレ有)
村山由佳「PRIZE」を読みおえたので、感想を書きます。ガンガンネタバレしていきますんで、嫌な方はお引き取りください(笑)。
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超売れっ子だが文学賞の受賞歴に乏しい作家・天羽カインが直木賞を目指す物語。テーマはずばり「小説を書くとは/読むとは、どういうことか」。
天羽の強烈なキャラクターに、まずは心惹かれる。小説を書くことにたいする苛烈なまでの向上心と、読者への至上のホスピタリティが同居する。原稿を間に挟んで編集者とやりとりしているときは「鬼女」のようだが、ひとたび原稿から離れればたいへんチャーミングで、優しくさえある。もう一人の主人公・千紘の言葉を借りれば「あまりの落差にくらくらと眩暈がするほど」(p.307)。
……よりフツーの言葉でいえば「ギャップがあって可愛い」ということになろうか。天羽がブチギレるシーンはほんと沢山あるが、見慣れてくるとなんか「またやってるよ」と笑えてくること請け合い。なんども繰り返し出てくるブチギレ表現「腹が煮える」(笑)。ぼくもこれ使っていきたいな、と。
編集者・千紘との、もはやエロティックとも言えるほどの絡み合いも、むろん読みどころだ。編集者はほかにも何人か出てくるが、それぞれの個性も読んでいて面白い。くすりとする場面もあればイラッとする場面もあり、すっかり村山センセーの手の上で踊らされる。
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しかし、作家より編集者より、わけても読者という存在が終盤にかけて立ち上がっていくのが感動的だ。
主人公の天羽を除くと、出てくるキャラクターは編集者に書店員に審査員にと、肩書はそれぞれあるものの「読者」という点で実は共通していると思われるのだが、17章〜18章あたりを境に、物語の軸は「書くこと」から「読むこと」へと変化している。……というより、「書くこと」と「読むこと」の境界が解けていく、と言った方がよいだろうか。
18章では作中作「テセウスは歌う」の本文が書き出され、千紘の編集作業を追体験できるようなしかけがされている。この点が実に「ニクイ」のだが、ともあれ、小説の中で小説を千紘とともに読みながら、「読者であるとはどういうことか」、「読むとはどういうことか」という点がクローズアップされていくにしたがって、読むことの危険性に気付かされていく。
どういうことか。物語のクライマックスで、千紘は編集者としての矩を超え、天羽のテクストを書き直すという暴挙に出るのである。たんに読者に「退行」するというよりはむしろ書き手へと「越権」しようとしていく千紘に、共感を感じる読者は多いのではないだろうか。
見方を変えれば、この本は「推し」という概念への応答にもなっているし、信仰の話でさえあるかもしれない。「推し」にしても信仰にしても、推している/信じている当の対象に、過剰に同一化してしまうというのはよくあることだ。
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読むことの危うさ。読むことと書くことの越境。これ自体は深い問題なのだが、しかし、天羽があくまでも作家として直木賞を目指していることを改めて思い出すまでもなく、「編集者が売れっ子作家の作品を勝手に書き換えた」という単にヤバい話のレベルへと、我々は戻って来ざるをえないわけです(苦笑)。
終章、すべてが終わってから千紘が受け取った手紙に書かれている言葉は「あなたを、許さない」(p.377)。……ああ、この場面の美しさときたらどうだろう? ぼくはちょっと、息を呑んでしまった。先走って言ってしまうと、ぼくたちが小説を読んだり書いたりすることにまつわる業(カルマ)のあらゆる側面が、ここにギュギュギュッと詰まっていて、ほんと苦しいほどなのだ。
「あなたを、許さない」
読んだ方にとっては明白だと思うが、もちろん作中作「テセウスは歌う」に絡めた言葉だ。ただしちょっと入り組んでいる。「テセウスは歌う」のインタビューで、天羽は作中のセリフについて聞かれ、こう答える。
「あれがもし『あなたを、許さない』だったら、意味合いがまったく違っていたと思うんです。人が誰かに『許したわけじゃない』と口にするとき、兆しはすでにそこにあるんですよね」
「兆し……」
「言い換えるなら、新しい関係性への最初の光、みたいなものかな」
これを踏まえて改めて千紘が受け取った手紙を読み返すと、なるほどと思わされる。
作家・天羽は、小説「テセウスは歌う」で「あなたを、許したわけじゃない」と書いた。それを千紘に向けて「許さない」に改稿したのだ。あたかも意趣返しのように。そして「新しい関係への最初の光」を、手ずから摘み取るように。
この小説に長く伴走してきたぼくたちとしては、またこの2人が出会う日が来るのを願ってやまないが、そうはならないという気もする。その不確かさが、悲しくも愛おしい。もう出会うことができない、かけがえのない2人……。人と人が出会い別れることが、物語を読むことと重ねられているのだとしたら、この小説は最高のラブストーリーでもあり、最高の物語論でもある。
ところで、実はこんな一節もある。
「ちなみに天羽さん、今回の『テセウス』も、読み直したりはしてない?」
「当たり前でしょ。あれだけ磨きあげて世に出したものを、何度もべたべた触ったりして曇らせたくないのよ」
「そうか。そうですよね」
「私がもし自分の作品を読み返すとしたら、うんと歳を取ってからかな。その頃には書いた内容も忘れてて、他人の作品みたいに読めるかも」
だからやっぱり、天羽と千紘は、また出会うのかもしれない。ぼくたちが、時を置いて同じ本を開くように。
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ついつい力んで書いてしまったが、ぼくの感想などはマジでどうでもいいので(!)とにかく小説を読んで欲しい、最高だから。当たり前だけどネタバレを読んだ上で読んでもなお面白いです。
個人的には「星々の舟」を再読したくなりました。村山センセーの直木賞受賞作ですからね。