見返したいと思いますか?
若い頃にバカにされたり、虐げられたりしたという悔しさや、劣等感をバネに頑張る人、というのは多い。
社会的に成功したとされている人でも、そういうエピソードはよく見かける。傾向としては、ひと世代、ふた世代前の経営者に多いようだ。
若い頃にバカにされ、「いつか見ておれ」と発奮するというエピソード。アスリートとかでも、そういう人は多いかもしれない。
僕はこの「見返してやる」という感情がいまひとつよくわからない。そもそもの前提として、「見返す」ことってできるのか? と思う。
たとえば自分が他人をいじめていた側だったとして、いじめていたやつが出世して、大金持ちになって、豪邸に住んで高級車に乗って美人の奥さんがいたからといって、それでどうなるのだろうか。
たしかにそのとき、その瞬間は悔しかったり、嫉妬したりすることはあるかもしれないけれど、そのうちそんな状況にも慣れてきて、「ふーん」という感じになるのではないだろうか。
それとも、いじめられていた側は、いじめていたやつが態度を急変させて、急に媚を売ってきたりコバンザメみたいにすり寄ってきたりしたら満足なのだろうか。それはそれで、悪趣味な感じもするが。
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僕も人間なので、そういう気持ちはわからなくもない。
あまりバカにされたりいじめられたりしたことはないけれど、でも他人よりはなんとかうまくやっていきたい、というような気持ちはある。でも、それは一般的な意味での「他人」であって、具体的な「あいつ」がいるわけではない。
特に「こいつを見返すために生きている」みたいな感じの対象がいるわけではない。
発奮材料をもって、それでもって努力するのはいいと思うのだけれど、具体的に誰かを見返すために頑張る人は、もうちょっと自分のために生きてもいいのでは、と思う。
仮に大成功して、大金持ちになったとしても、それで相手が悔しがらなかったらどうするのか。人生設計が狂ってしまう。
見返したい相手が、平均年収以下の収入であったとしても、そんなに美人でない奥さんがいたとしても(笑)、家族仲良く幸せに暮らしていたら見返すことはできないのではないか。幸せの形というのは、ひとそれぞれなんだから。
少なくとも、僕は、たとえば中学や高校の同級生が成功して大金持ちになったとしても、そんなに羨ましいとは思わないような気がする。成功したらしたで、また別の苦労があるだろうし、大変だろうな、と思うだけだ。
もちろん自分は自分で目指しているものはあるけれど、それは一般的な「成功」とはまた違うもののような気がする。
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「見返したい人」は、その他人のために生きているように見える。自分のために生きていないのだ。
自分の幸せとはなにか、自分を幸せにするために、努力をすればいいのでは。