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「やりがいが欲しい」なんて青臭いことは言わないけれども

前の会社の最終出社日から、二十日あまり。まだ、面接を受けたりはしていないものの、ちょっとずつ転職サイトなどを覗いてみるようにしている。
 
当たり前だけれど、世の中にはたくさん求人があるものだな、と思う。コロナ禍で不況だとはいえ、仕事を募集している会社はたくさんあるのだ。
 
僕は会社のネームバリューはどうでもいいので、どういうことをやっている会社か、というのを重視したいと思っている(そもそも、会社のネームバリューを重視するならば、新卒の時点で潜り込む戦略がベストだったろう)。

10年ほどの社会人経験で、いろんな会社をみてきたが、「何をやっているのかよくわからない会社」というのはけっこうあるものだ。特に、長い歴史をもっている会社ほど、途中で何度か方向転換をしているので、もはや何をやっている会社かわからなくなっている傾向にあるところが多い。
 
マスコミの煽り文句を鵜呑みにするわけではないけれど、いまの時代、大企業であっても安泰ではないな、ということをつくづく感じる。ひとつのビジネスが成立するスパンがとても短くなっているからだ。

高度経済成長期に活躍した企業が、いまでも同じ業態で食べているということはまずないだろう。大なり小なり、当時の事業と同じではいられず、なんらかの方向転換を余儀なくされているはずだ。

そして、そのスパンはどんどん短くなっている。ひとつの製品やサービスの賞味期限が、10年・20年から、1年、半年ぐらいになっているのではないかと思う。10年前のトップ企業と、いまのトップ企業の顔ぶれを比べてみると、その偏移の速さがわかるだろう。

会社って一体なんなのだろうな、と思う。「法人」という言葉がある通り、法律上は、「人格」が与えられている。だから、「会社」自身が、まるで生き物のように「生存欲求」をもつ。

僕は一応、これまで会社員として生きてきたから、いわゆる「労働者」であったわけだけれど、「会社に入社する」という感覚は、いまだになんだかしっくりこない。僕は「仕事をしに」会社に所属しているのであって、会社の中に取り込まれたわけではない、と感じるからだ。
 
もちろん、「労働者」として法律で保護され、生活をある程度保障してもらう、というのはありがたいことではあるのだけれど、別にそこまでしてもらう義理は本来ないよな、ということを思う。

たとえば、事業の寿命が10年だとしたら、10年後にその事業が終わりを迎えたときに、会社ごと解散してしまって、また新しい会社として新事業をやる、というのでもいいわけだ。

要するに、「社会の課題を解決するために、何らかの事業をする」のが会社であって、「会社として存在し続けるために、もとあったものを捨ててまで、方向転換をし続ける」というのでは、本末転倒なのではないか、と思うのだ。

もっと、事業を行う共同体として、有機的な動きをしてもいいのではないか、と。ちょっとこの発想は、ややアメリカ的というか、新自由主義的で、極端だとは思うのだけれど。

何をしているのかよくわからない会社は、そこで働いている人が何を考えているのかわからないところが嫌だな、と思う。

事業としての目的がハッキリしている場合は、その事業を実現するために社員が邁進しているはずだ。でも、「会社として存在していることが会社として重要」で、働いている人の目的の大半が「その会社になるべく長くい続ける」ことだったらどうなるか。企業として、ゆっくりと腐敗していくのだろうな、ということを思うのである。
 
「やりがいが欲しい」なんていう青臭くて中途半端なことは言わない。

せめて会社として、どういうミッションを持っていて、それをどういう戦略をもって実現させていこうとしているのか。

それが共感するに足るものであった場合に、自分もアイデアと労働力を持って参画したい、そういうことを考えるのである。

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やひろ
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