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陳腐な表現だが、本は世界の扉だ

なんだか最近忙しい。これまで暇だったかのような口ぶりだが、いまの状況を思えば、実際そうなのだろう。特に繁忙期でもないのに忙しいとは、これいかに。

どういう点で忙しさを感じるかというと、あんまり読書の時間がとれていないな、というところにある。以前、「1日は23時間だと思おう」というのを自分に言い聞かせていた時期がある。それは、1日に1時間は読書に充てよう、という意味である。1日を23時間だと割り切って、どんなに忙しくとも1時間は読書をしよう、と。

しかし、1日1時間を読書に充てるのがけっこうきつくなってきた。休みの日もなんだかんだ時間がなく、平日に1時間どころか、休みに1時間を読書に充てるのが難しい日もあったりする。

会社にいるあいだは当然仕事をしている。だから、プライベートで自分のやりたいことをやるには、家に帰ってからが勝負、ということになる。どうでもいいYouTubeなんか見ている場合ではない、自分のやりたいことをしなければ……。

まあ、実際はずっと自分のやりたいことだけに集中しているわけではなく、当然youtubeをぼーっと見ている時間もある。「自分のやりたいこと」を押しのけてそういった無為な時間をとっているということは、それはそれで自分にとっては必要な時間なのだろうか。

余剰の時間で、当然noteも書く必要がある。まあ、これは習慣化しているので、そこまで極端に時間がかかるものではない。しかし、何を書くかは考えなくてはならないし、実際に文字を書く時間も必要だ。

noteに書いている内容というのは、自分の仕事に直接関係のあることではないし、なんというか、自分の「考えていること」という非常にふわっとした内容なので、やはりそれなりにふわっとした時間がないと書けないものだよな、と思う。ふわっと考え事をする時間が必要、ということだ。

ふわっと考え事をするためには、ぼーっとするのもいいが、読書をするのが一番だ、と思う。完全に内的な世界で考え事をするよりも、本からの刺激でものを考えるほうが考えやすいらしい。

読書は真の意味で余暇の時間だよな、ということを思ったりする。自分の生活や仕事に関係のない本を読むことも多いからだ。宇宙のこととか、古代の人類の生活の本とかを読んでいると、わざわざ時間をとってこういうものでも読まないと、そういった情報に触れる機会ってないよな、と思う。

陳腐な表現だが、本は世界の扉だ。忙しくとも、たくさんの本を読み、積み重ねることが大事なのだろう。日常から離れ、違う概念に触れることで、発想も豊かになる。

仕事など、自分の「やるべきこと」だけに集中し続けたら、自分はどうなってしまうのだろう。読書やnoteによって、自分の生活や仕事とは関係のないことを考えるから、まだ自分が保てているのであって、それもなくなってしまったらどうなるんだろうな、と思う。そういう意味では、書くこと、読むことで救われているのかもしれない。

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