「美しい」は正しさか?
物理学者が、理論物理学について書いた本を読んだ。
理論物理学について、どのような印象を持つだろうか。高校生ぐらいで学ぶ物理は数式だらけだが、理論物理の世界というのはそれに輪をかけて数式だらけで、この宇宙全体、あるいは、物質の最小単位の超ミクロの世界といった日常からは大きくかけ離れた世界を数式を使って解き明かす学問だ。
もちろん、僕はそういった数式だらけの物理の世界などわかるはずもないので、数式が使われていない本でないと読めないのだが、本書は幸いなことに数式はどこにも出てこない。
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理論物理学における「美」とは何か。もちろん、数式がキレイだということなのだけれど、具体的にはどういうことなのか。
わかりやすく言うと、出てくる数字が「1」に近ければ美しく、離れれば醜い、ということらしい。というのも、「1」であれば説明に特別な理由が必要ないが、「1」から離れると、「なぜその数字になるのか?」の説明が必要になるからだ、とのこと。
いまの物理学を統一する理論として「標準模型」と呼ばれるものがあり、その標準模型に従えば、物理法則を概ね矛盾なく説明できるようだが、数多くの「1から離れたパラメーター」によって構成されているため、理論物理学者からは不評らしい。
宇宙は、ごちゃごちゃしたパラメーターで調整されたものではなく、なるべくシンプルであるべきだ、という美学があるからだそうだ。確かに、万物のあらゆる現象が、微調整された絶妙なバランスの上で成り立っていると考えるよりは、根源にシンプルな数式がポンとあり、それが派生してさまざまな物理法則が成り立っている、と考えたほうが、スッキリはする。
しかし、理論物理学の世界というのは、そういった物理学者による「願望」が多くを占めている世界なのだとか。
確かに、専門家であればあるほど、「美しいか、美しくないか」で物事を判断する傾向にある。例えば文章などでも、優れた文章には無駄がなく、洗練されている。ごちゃごちゃと付け加えたようなものは美しくない。
工芸品などでも、一流のものは研ぎ澄まされており、美しさを感じる。「美しい」と感じる心そのものが、シンプルで機能的なものを判断するためのセンサーのようなものなのかもしれない。
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将棋の棋士なども、長年の経験から、「これがいい手だ」というのが浮かび上がってくるようになるらしい。しかし、藤井聡太はそういった棋士たちの常識を外れた手を指してくるそうだ。つまり、一般的な棋士からしたら「美しくない」手も指す、ということになる。
真の天才は、そういった美意識を超えたところにあるのかもしれない。あるいは、その感覚が新しい美意識を形作るのだろうか。