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「きみはオフィーリアになれない」 安達凛子 前編 #010
自分は疲れているだけなのだ。そう、ちょっと疲れているだけ……。
ちょっとだけ、眠らせて……。
うとうととして、コーヒーマグを自分の前から退け、テーブルに突っ伏して寝ようとした。
そのとき、ガタッと、玄関と部屋を繋ぐ引き戸が開いた。
あまりにも普通にドアが開いたので、一瞬、何が起きたのか理解できなかった。
エイジと名乗る少年が入ってきたのか、と瞬間、そう思った。
凛子は椅子をはねのけて立ち上がった。引き戸は開け放たれたものの、人が入ってくる気配はない。心臓が高鳴っているが、後ずさりし、やがてやってくる何者かと対峙する心の準備をした。
引き戸の奥の、玄関の闇の中から、ゆっくりと、影が近づいてくるのが見えた。
……さっき、廊下で出会った、影?
突然、足音とともに現れ、そして消えてしまった、影。
やはり先ほどと同様に、ぺた、ぺた、という足音を鳴らしながら、ゆっくりと部屋に入ってくる。さっきの廊下で会ったときよりも、その姿はよりくっきりと見え、完全な人型だとわかった。身長は凛子よりも少し高めで、一七〇センチはあるだろうか。一歩一歩、床を踏みしめるようにして中に入ってくる。
凛子は、異形のものを部屋に迎えるというよりは、どこか、奇妙な親近感のようなものをその影に感じていた。自分で考えてみても不思議なことだが、その影が敵意をもっていないことが、なんとなく、肌で感じられるのだった。
「こんばんは」
凛子はそうやって、影に話しかけた。相手の顔はわからないが、こちらのことを見つめているような感じがした。
「……もしかして、先輩?」
凛子は先ほど抱いた自分のシンプルな疑問を口にした。自然と口から滑り落ちてきたので、言ってしまってから自分でびっくりした。
影は、おそらく、こちらを見つめ続けている。
肯定も否定もしない、そんな影の様子を見て、先輩だ、と凛子はなぜかそう確信した。
「先輩、ここにいたんですね」
影は見つめ続けている。
「先輩、コーヒー飲みますか?」
影がコーヒーなんて飲むわけがないだろう、と思いつつ、凛子はそう口に出してみる。
影が、かすかに、首を振ったような気がした。
影の正体が先輩だと確信しても、凛子はどうすればいいかわからなかった。またさっきのように、消えてしまったりはしないだろうか。凛子と同様に、影も、この世界でどう振る舞えばいいのか、わかっていないように思える。この世界に来たばかりだとしたら、それは当然だろう。
かすかに、影が、何かを発声したような気がした。
影が声を出したというよりは、ビル風が通り抜けるときのような、びゅうとした風音のようにも思えたが、影の様子を見ていると、何かを言いたそうにしていることがわかった。
「カ」と影は言った。掠れるような声を、凛子は聞き取った。
「か?」凛子は繰り返す。
「カ、……エ、リ」と影は言う。
「か、え、り?」
「オ……カ……エ……リ」
影が何が言いたいのかがわかった。影は、ゆっくりと、足を引きずるように部屋の奥へと向かって行く。凛子はただ見守ることしかできない。ゆっくりと時間をかけて、影は部屋の奥に向かうと、ベランダの大窓の前で立ち止まった。
(つづく)
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