書評が難しい理由について
内田樹の、書評について書かれたブログ記事を読んだ。
(あまり)書評を書かない理由 - 内田樹の研究室 http://blog.tatsuru.com/2020/10/09_1518.html
内田樹があまり書評を書かない理由について述べられている(そうだったの? という感じもするが……)。
簡単に言うと、出版されている本が(自分にとって)良くないものだった場合、それを酷評しても、それが書き手、ひいては社会のためにはならない、ということを言っているようだ。
例として、村上春樹が「ノルウェイの森」の大ヒットによって受けた、ネガティブな影響について書かれている。
「ノルウェイの森」は、出版当時、爆発的にヒットして、社会現象にまでなった。しかし、大ヒットするということは、裏を返すとファンでもなんでもない人たちがそれを手にする機会を得る、ということを意味する。
当然、絶賛する人もいれば、心ないことを言う人もいる。誹謗中傷的なことを投げかける人たちはほんの一部であっても、母数が大きければ、それはとんでもない量となる。
そもそも、小説家、作家というのは繊細な人が多い。繊細だからこそ、世の中の機微をとらえ、文章で表現することができる。誹謗中傷があれば、それに耐えられず、筆を折る人も少なからずいるのだろう。
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僕も本を読むのが好きだから、たまに書評のようなものを書きたくなることがあるのだが、難しいな、と感じる。
何が難しいかというと、「本について書くのか」「本の内容について書くのか」、どちらにすべきか悩む、ということがある。
本というのは、「誰かに向けて」書かれているものだから、その「誰か」が手に取る価値があるのか、こちらで事前にレビューして、「いい本ですよ」「あまりよくないですよ」ということを書く。これが書評なのかな、と思う。
しかしよくよく考えてみれば、その道の専門家が執筆して、校閲などの厳密な精査を経て上梓された書籍に対して、素人が「価値がある」「価値がない」と評するのはなかなか傲慢だな、と。
一方で、「本の内容について」だったら、いろんなことが書ける。たとえば、中国について書かれた本だったら、僕自身の中国体験を振り返って、「こうだったのか」と納得することもあるだろうし、「上海ではこうだった」とコメントすることもできる。
さらに、その知識を敷衍して、別の国のことについて考えることもできる。要するに、本に書かれていることをトリガーにして、自分の思考を押し広げていく。
これは、もはや本とは無関係なことも含むので、「書評」とは呼べず、「読書メモ」とでも言うべきものだと思うのだけれど、僕はどちらかというと「書評」よりも「読書メモ」のほうが価値があるのではないか、と思う。
理由は、一冊の本の価値を一般人が断ずるのは傲慢なのでは、ということと、どんな本にもそれを必要とする人はいるから、読んでみるまで価値はわからない、ということがある。
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全然中身がない、と感じる自己啓発本だって、読むべき人が読めば救いになるかもしれない。重要なのは本の価値ではなく、本を読んで何を考えるか、ということだと思う。
できれば、そうした思考は、自分の頭の中だけでなく、アウトプットしたほうがいい。それによって、さらに高い思考へと発展させることができるかもしれないので。
自分も、自分の文章を読んで「なにを考えたか」。そういうことをコメントしてもらえると嬉しいな、と思う。
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