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秋の夜長、一番星に想いを馳せて。

健人くんがソロアイドルになって6ヶ月が経った。喜びと驚きに満ちた春を越え、興奮と挑戦の夏を過ごして、季節は穏やかな秋を迎えた。ソロアイドルになってからの健人くんはますます活躍の場を広げ、今まで届かなかった層にまで中島健人というアイドルの価値が認められ始めている。
今回は健人くんをアイドルたらしめる要素について、「そもそもアイドルの存在とはどういうものか?」という観点も絡めながら、あくまで個人的な視点で書き記したい。
また、最後に「アイドルとファンの関係について」も今の自分の考えを書き残しておく。


◾️プロ意識
現代のアイドルに求められる要素の中で最も大きな割合を占めるのが「プロ意識」だ。「プロ意識」の定義は人によって様々で、「熱愛報道が出ないこと」と言う人もいれば「熱愛はOKだけど不祥事はダメ」と言う人もいるし、「show must go onの精神だ」と言う人もいるだろう。ここでは(私にとっては)アイドルにおけるプロ意識とは「どんな場面でもやり切る精神」と定義したい。中島健人はこのプロ意識という点において突出した精神の持ち主だと考えている。
彼は一つ一つの仕事に全力を注ぐ。どんな場面でも「手を抜いている」と感じたことはない。ファンしか見ていないような場面でも、番組のゲストとして呼ばれた時も、ラジオ番組でも、メイキング映像でも、SNSにおいても。たった一人でもオーディエンスがいれば、彼はそこで求められる“中島健人”を演じ切る。それはグループにいた時もソロアイドルになってからも変わらない。私が見る中島健人はいつだってご機嫌だったり真剣だったり、その姿を見るだけで笑顔や元気をもらえる存在だ。見ている者を幸せにできるプロ意識こそが、彼を最高のアイドルたらしめる要因の一つだと考える。

◾️光と影
ソロアイドルになってからの彼は、今まで覆い隠してきた“闇”の部分を作品を通して開示するようになった。それは彼を応援してきた多くの人にとって程度の差はあれど衝撃を与えただろうし、私自身も多少の動揺はあった。『HITOGOTO forヌーヌー』の中の「アイドルはきっと悲しみのフィクション?」というフレーズに凝縮されるアイドルとしての闇の部分。正直そんな言葉聞きたくなかった、完璧で最強のキャラクターのままでいてほしかった、何事にも傷付かず揺るがない「ファンにとって最高に都合の良い存在」であってほしかったーーそんな風に感じた人もいたのではないだろうか。
けれど、彼はそれでも尚、光の存在として輝き続けていると私は思う。光が強くなれば影が濃くなるというが、逆もまた然り。正々堂々と影の部分を開示したからこそ寧ろ彼の放つ光がより一層強くなったのではないか。
自身の持つ闇の部分を開示するという行為には相当な覚悟が必要だ。まず自らの弱さや醜さと向き合わなければならない。そして“理想的でない自分"を受け入れなくてはならない。その上でこれからも舞台に立ち続ける、理想の自分を追い求め続ける、という強い意志が必要になる。鎧を脱いだ後に待ち受ける舞台は今までとは違う。あらゆる誤魔化しが一切効かない、そこではパフォーマンスの真価が問われる。
さて、ソロアイドルになってからの彼のパフォーマンスは世の中にどう映っただろうか。
「さすがアイドル」「中島健人はやっぱり華がある」「圧巻のパフォーマンスだった」ーー寄せられた数々の称賛の声。これが中島健人というアイドルの放つ光。影を背負って尚、より強く輝き続ける圧倒的な光だ。
苦悩と秘密を抱えながらも、舞台の上では完璧なパフォーマンスで見る者を魅了する。多少醜い部分を見せたとしても、これまで築き上げてきた中島健人というブランドの名に傷をつけることはできない。血の滲むような努力と葛藤の果てに得た強い光は、時に群がる夜光虫に邪魔されながらも、決して損なわれることはない。彼自身の魅力であり強さなのだ。

◾️舞台への執着心
彼のパフォーマンスは男女年齢問わずあらゆる人間を魅了する。ファンの前だけでなく、アウェイの舞台に立った時でさえも、いや寧ろアウェイの舞台でこそ、その完璧なパフォーマンスと存在感はより多く視線と心を惹きつける。ひとたび見れば目が離せなくなる、鮮烈なインパクトを残す彼のパフォーマンスは、なぜこれほどにも魅力的に映るのか。
まず間違いなく言えることは、本番までに積み重ねてきた準備だろう。「最初の歌番組ではイマイチでも歌い慣れれば完成度が高くなる」というような甘えた考えは彼からは一切感じられない。それはグループにいた時からずっと変わらない。彼にとってはどのステージも本番であり一つのチャンスなのだろう。歌・ダンス・表情・視線・ビジュアル、極限まで完成度を高めた状態でステージに立ち、一瞬で全てを爆発させる。削られた魂がキラキラと輝くその瞬間は、誰もが目を離せなくなる。
完璧なパフォーマンスにこだわる姿からは、彼の並々ならぬ舞台への執着心が窺える。彼にとって、満たされることのない承認欲求を癒すことができるのは、ステージの上のみ。観衆の視線と心を奪える瞬間こそ、中島健人というアイドルが最高に「生きている」時間なのではないか。だからこそキタニタツヤは『ファタール』において“僕を見ていて”というフレーズを中島健人に授けたのではないか。
ソロアイドルになってからのインタビューで彼はよく「満たされないことが幸せ」であると語っている。常人には理解し難い感性かもしれない。けれど、満たされないからこそ舞台への執着が消えることはないのだろうし、一瞬の歓声だけで満足せず、新しい舞台に向かって挑戦することができるのかもしれない。中島健人のもつ承認欲求の強さ、そして舞台への執着心はまさに“天性のアイドル”と言っても良いだろう。

◾️イミテーションを本物に変える努力
先日公開されたインタビューの中で彼はアイドルになった頃の自分について「人造人間」と表現した。「自分の全ての人格を変える」という覚悟を胸に、アイドルという茨の道に足を踏み入れたのだろう。ただでさえ自己が定まらない不安定な時期に固めた決意は、時に自身を勇気づけ、時に自身を守り、時に自身を苦しめただろう。強く見せるための鎧を、美しく見せるための装飾品を、完璧に見せるための仮面を、地肌が見えないくらい重厚な装備を身につけて、理想のアイドルになるべくして成った。人造人間とは言い得て妙な表現だ。その姿は本物の宝石とは違うイミテーションかもしれない。本物より価値が低いかもしれない。しかし、アイドルという生き物においては、必ずしもそうではないと私は信じたい。
アイドルは自分自身が商品だ。ひとりの人間に価値を付与するには「人の心を惹きつける」ような加工が必要になる。料理人が美味しい料理を、建築家が快適な住まいを消費者に届けるのと同じように。自分自身を美しく魅力的に飾り立て、価値ある商品としてステージに立つのがアイドルの使命であり、プロ意識だ。世間一般から見ればその姿はイミテーションであり「嘘」と呼ばれるかもしれない。それでも、その「嘘」こそがアイドルにとっての「誠実」なのではないかと考える。秘密を抱えていても、全てが本物じゃなくても、“理想のアイドル”を演じてファンを愛そうとする。イミテーションを本物の宝石のように、いやそれ以上に輝く存在に“見せる”、それがアイドルの誠実な生き方なのではないか。
しかし、いつかは身につけてきた装飾物も重くなったり古くなったり、限界が来るだろう。そうなった時、初めてありのままの生き様が顕になる。重すぎる装飾物に押し潰されてボロボロになった自分が露呈する人もいる。装飾物を付け替えて上手く価値付けできる人もいる。隠れた部分を磨き続けて、イミテーション以上の輝きを放つ人もいる。メッキが剥がれ落ちた先に待ち受ける結果は人それぞれだが、それはその人の生き様ーー今までの堅実な努力によって大きく左右されるものだと思う。
中島健人というアイドルは確かに最初は人造人間だったかもしれない。しかし30歳という節目を迎え、ソロアイドルという新たな道を歩み出した今、もはや今までのような装飾物は不要となった。茨の道を進む中で、困難を乗り越えるしなやかさを、万人を魅了する気品と華を、誰もが虜になる笑顔を手に入れた中島健人は、これからも新たな武器を手に入れながらさらに上のステージで輝き続けると信じている。


最後に、私が考えるアイドルとファンの関係性について触れておきたい。健人くんの卒業とグループの改名を機に、私はSexy Zoneのファンを卒業した。初めて迎えるファンとしての終わり。Sexy Zoneのファンとしての私の物語は幕を閉じたのだ。めでたしめでたし、理想的な結末だったかと聞かれれば正直に言うと分からない。もっと一緒に見たい夢があった。景色があった。しかし、Sexy Zoneのファンとして過ごした日々を振り返る時、不思議と気分は晴れやかだ。
アイドルのファンというものは、“自分の中の理想のアイドル(あるいはグループ)”を愛する生き物だ。熱心なファンの中には“理想のアイドルのファンである自分”そのものがアイデンティティの一部となっている人も少なくない。故に、理想と現実が食い違うと混乱や怒り、失望が生まれる。もちろん、現実を受け入れて自分の中の偶像をアップデートできる人もいるだろう。しかし自分の中の理想を守りたい気持ちが強すぎるあまり、都合の悪い現実に蓋をして他者に対して過剰に攻撃的になる人もいる。あるいは、その矛先がアイドル本人に向かって所謂「反転アンチ」になる人もいる。「推しの子」にも象徴されるように、最近ではアイドルとファンを巡る物語は決してキラキラとした夢物語ではなく、寧ろ光が落とす闇に着目されることの方が多いくらいだ。
そもそもアイドルとファンは脆く不安定な関係だ。アイドルの本音や本当の姿をファンが知ることは永遠にないだろう。またアイドルだって、数多のファンの要望や期待に全て応えることは不可能だ。それでもアイドルは夢を見せることをファンに約束し、ファンもまたアイドルが夢を見せてくれると信じて(期待して)時間やお金を費やす。そこに実在する確かなものなどない。お互いが「空想の約束」のもとで成り立っている。当然、ファンにとってアイドルと交わした(と信じている)はずの約束がすれ違うこともあるだろう。アイドルにとってもまた、ファンは都合の良いだけの存在ではない。時に容赦なく石を投げてくる厄介な生き物であると感じることもあるだろう。アイドルが舞台を降りた時、ファンが興味を失った時、その関係性は完全に失われる。
それでも、私は信じたい。
ファンがアイドルと一緒に夢を見た時間(そう思わせてくれた時間)は失われない。笑ったこと泣いたこと、思い描いた夢、SNSに投稿した熱い想い、「この人・グループのファンでいられてよかった」と感じさせてくれた記憶は決して嘘ではない。失くせないし、失くさなくていい。同じ夢を見られなくなったとしても、一緒に夢見た時間を愛おしい思い出として持ち続けてもいい。もちろん全てを思い出にするには時間がかかるかもしれない。しかし、だからと言って理想のアイドルじゃなくなった相手を攻撃しなくていい。ファンだった時間を否定しなくていいし、ファンだった自分自身を傷つけなくていい。時間をかけて、現実を受け入れて、前を向こうと思えた時。思い出を一場面ずつ、大切にアルバムに綴じよう。時折読み返して、ページをなぞりながら慈しむことができたら、きっとそれは今後の自分の糧になるはずだ。
私もSexy Zoneというグループのファンを卒業したけれど、彼らと夢を見た時間は今も大切な人生の1ページだ。ドームという夢のステージでキラキラ輝く彼らの姿を思い出すと、今でも胸が熱くなる。今は健人くんと一緒に新しい夢を見ることに全力を注いでいるけれど、美しい思い出が詰まったアルバムを大切に、遠くから彼らの幸せを願っている。

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