「馬場にオムライス」(ササキリユウイチ著)の解体を試みる
はじめに
わたしはもはやササキリの友人である、と云える。そのことで解像度が高まっている場合があり、しかしそれは決してササキリの個人を暴こうとしているのではない。また、友人を名乗りでた上でササキリの解像度が低い場合(それはササキリの近しい人物にしか知りえないことであろうが)は書評の成功とも云えよう。わたしはササキリ個人を語りたいのではなく、本書を解体したいのだから。
この書評における目標地は「馬場にオムライス」を通じてササキリユウイチの作品性、作家性について解体することにある。
1ササキリの作品性
言葉の不等の等式について
ササキリの作品性について大きくわけて三つの技術が巧みに成されている。
その一つ目が不等の等式である。
これは短詩(川柳・短歌)において現代の流行でもあるし、当然の技法でもあるのだが、わたしは敢えてあげたい。というのもササキリはこの不等の等式をばれ句(下ネタ句)に多用しており、またばれ句のほうが句として成功しているように思うからである。
AがBであること、AのBであること、は正しく=で結ばれるのが適当な文章の書き方である。しかし引用した句はそうではない。たとえば「歯痒さも腸の産毛も忘れ去り」の“腸”に“産毛”があることはササキリのイメージから出現した事象である。たしかに腸にはひだと呼ばれるものがあるが、わたしたちが通常想像する“産毛”は柔らかく赤子に生えているような、光に反射すれば銀色に輝くようなもので、到底“腸”という内部に生えているとは思えない。それに加えてこの繋がりはなんとなく下ネタを想像させる。それは“腸”という体の内部にある器官であることのグロテスクな単語のイメージからなのか、“産毛”の繊細で柔らかく、いつもは隠されている秘密めいた単語のイメージからなのか。わたしはどちらからでもあると思うが、通常=で結ばないものを結ぶことで、官能的なイメージを読者に与えているのは確かである。しかし“腸”も“産毛”も直接的な下ネタではない。
逆に「経血で装飾されたデパ地下に」は“経血”という直接的な下ネタを使用している。(“経血”が下ネタではなく女性のからだに関連した生理現象の用語である、という点は一度無視する。)だがわたしはこの句を読んだ時、女性であるのにも関わらず経血の匂いも色も現象も思いださなかった。“装飾された”で結ばれることによって、わたしは華やかな“デパ地下”を想像した。もちろん生理にマイナスイメージがある人には陰鬱な“デパ地下”になるとは思うが、そのとき、“経血”が持つ生々しい単語のイメージを感じる人はどれくらいいるだろうか。わたしは少ないと思っている。
このようにササキリは言葉の不等の等式によって、下ネタでないものを下ネタに、下ネタであるものを下ネタでなくしている。
ササキリには、その言葉そのものが持つ性質を無効化させたいという狙いがあるのかもしれない。「肌荒れのような立ちションを肌荒れに」は一度読むだけでは“肌荒れ”が重要であるのか“立ちション”が重要であるのかわからない。どちらでもいいのかもしれない。重要なのは言葉そのものではなく、句が詩として成り立っているかに重きを置いているように思えるからだ。
それは「鈍色の霧が乳首の色になる」に顕著に現れている。“鈍色の霧”が“乳首の色”になる、というのは、霧のなかから現れた女性の乳首の色はこちらからでははっきりとは伺えず、霧の効果によって鈍色になって見える、といったような情景が浮かぶ。趣がある。
ゆえに、一見結ばれるはずのないものをササキリは自然と=で結ぶが、それは句全体において、それほど重要なことではないような気がしてくる。等式で結んだ言葉をどのようにして詩にするか、または、詩情を漂わせるかということがササキリにとっては重要であり、不等の等式はその手段でしかない。その思惑によって読み手は不等に気づかないかもしれないほどだ。しかしそれでいい。そもそもこの句集は
から始まっている。“ふくろう”が“唾液”を垂らすところなど、日常生活においてリアリティに欠けている。ササキリの思惑が一句目から現れているとはだれも考えつかないだろうから。
渇きについて
技術の二つ目が渇きである。
わたしは以前に「渇きのササキリ、湿りのやは」というキャッチコピーを考えたことがある。(note参照)ササキリの句には水を飲んでも飲んでも潤わない渇きがあり、それは、たとえ性欲があっても性器が湿らないといったような意味だった。つまりその渇きは下ネタ句に感じていたことだった。それもそうなのだが(たとえば「からからになった机に射精した」という句はまさにそういった印象を受けるからだ)、しかしこの句集を読んでいるとこの渇きというのは<滑稽>でもあるのではないかという考えが浮かんでくる。たとえば、
という2句がある。
わたしはスカイツリーができてから“東京タワー”はいまや哀愁を漂わせるモチーフであると考えている。そこに“タコパ”という楽し気な言葉を持ってくる。読み手の頭にはミスマッチな景が浮かぶ。しかも“タコパ”は略語であり、pで終わる軽い音の単語である。“無慈悲”で始まり、“パ”で終わる。重みから軽さへと単語によって落差を付けている。軽さへの転落である。
“無慈悲な東京タワー”と“笑い死ぬ”には自嘲を感じる。
“無慈悲な”と説明することによって“東京タワー”を擬人化し、自我があるように思わせている。自我と“タコパ”という外的要因の齟齬。だれにでもあるように周りとうまく馴染めない心意を表しているのではないか。
しかし問題は“性的な釣鐘の音”である。“性的な釣鐘”という軽率な言葉繋ぎと“釣鐘の音”というササキリの言葉の隙に“笑い死ぬ”かのようである。これは意図的なものであるか知らない。
だがその軽率さと自嘲が<滑稽>に繋がっているのではないだろうか。
他にも
“公衆的な名前”である。名前とは公衆的なものである。名乗り呼ばれて名は意味を成す。この句にそれ以外のドラマ(要因)はない。それは逆説的にどんなドラマも産み出せることを意味するが、“付けた”と断言することで、その意味は失われる。だがその断言が妙に軽く、そこが面白いとわたしは思う。
以上からササキリの渇きというのは軽率さ・自嘲から産まれる<滑稽>であり、言葉そのものが持っている意味の軽妙化に繋がっていると考えられる。
もちろん言葉を丁寧に選んでいるはずだ。しかしササキリは意味を選んでいるのではない。ササキリには独特の言語感覚がある。
命令形の多用
技術の三つ目としてササキリの句には命令形が多く使用されている。
これらすべてに通じていることは上記の言葉の不等の等式とは真逆に、ある程度、正当な等式で成り立っているという点である。
たとえば一句目の“階段を降りて”=“偽物の一人になれ”。この式は成り立つ。階段を降りることは映画的表現においても堕落を意味する。故に偽物になることもある。
他の句もそのようにして式が立つ。
“激情”=“渦潮”。これは感情のふり幅あるいは激しさをそのまま景に委ねている。“白紙”=“浜辺”。これは白さの繋がりがある。“丁寧にひらけよ”=“意味が減るじゃねえか”。これを読むとき、読み手は本を想像する。本を丁寧に読まなければ、そこにある意味を掬いとれない、といった意味が込められていることが想像される。
命令形は一見意味が成り立たない文章でも我々読み手は納得してしまうだろう。だがササキリはその容易さを利用しない。繊細な繋がりを用いて意味を成り立たせる。その上で我々読み手に命令するのだ。
上記の二つの技術とは真逆のことをすることで、ササキリの言葉の説得力は増す。
代表作について
「馬場にオムライス」には代表作と云われる二句がある。だがわたしははじめこれらを理解できなかった。つまり意味がわからなかった。しかし後にそれはササキリという作家の私性、もしくは思想などといったササキリ本人の根源が含まれているからではないかと考えた。
ここで参照しておきたいのがこの句集の解説(川合大祐)である。
わたしは上記の解説部分が好きである。読み手にとって、意味はいくらでもあったほうが豊かな読書ができるからである。豊かな読書は豊かな人生に繋がる。
しかしわたしは云いたい。ササキリの代表作に限っては“意味がありあまるほど在”るのではない、意味はたったひとつしかないのだと。
まずは一句目を見てもらいたい。
この句はタイトルにもなっている句である。つまり重要な句であることに間違いないのだが、しかしわたしが指摘したササキリの作品性3つのうち、どれにも当てはまらない。不等の等式も渇きも命令もない。よってササキリはこの句を技術的に良いと自己評価しているのではなく、ササキリが持つ詩の感性もしくは私的な事情によって評価しているのではないかと考えられる。感性もしくは私的な事情とはつまり、ササキリ本人の根源であり、書評で解体する必要のない領域になってくるのだが、一応は解いていきたい。
この句で最もわたしたちが注目するのは“馬場”という地名である。馬場は高田馬場だ。場所が限定されている。しかし先ほど引用した「無慈悲な東京タワーにてタコパ」のように擬人化されているのではない。この句は「腐った喉でささやく/馬場にオムライス」もしくは「腐った喉でささやく馬場に/オムライス」と分けられる。わたしは前者で読んでいるが、前者であっても後者であっても鍵は“馬場”である。そしてこの句は“腐った喉”“ささやく”“オムライス”と要素が多いがゆえに、“馬場”という鍵は“東京タワー”のように決して他に変えることができない。句として完成されていると云える。けれど、どうしてかはわたしたちにはわからない。云えることがあるとするならば、この句は本書のなかでも特に詩情に溢れている。それが良い句と決定付けているのだろう。そして詩情は作者の根源である。ゆえにこの句にはきっとひとつの意味しか含んでいない。ササキリという意味しか。
次に二句目を見てもらおう。
これは「後書きのための三十七のアフォリズム」27を参照すれば、意図を知ることができる。
そして驚くことに「腐った喉でささやく馬場にオムライス」と重なる部分があることに気づく。つまりこれはササキリの私性も含んでいるということだ。
ところで、作家がある作家に影響されて何かを書いたとする。それはオマージュともパクリとも云うが、それは作品に対してである。では“影響”自体をどうカテゴリーするのか。わたしはそれはもはや作家の一部であると云えると考えている。つまりだれかから影響を受けたとしてもそのひとはそのひとであるということだ。だからササキリがわたしの通読してない作家に影響を受けていたとしても、あまり関係がない。話を戻そう。
一句目は完全に私性の句だった。しかし「マダガスカルの治安を乱すな」はそれに加えて“乱すな”という命令形が用いられている。その点でササキリらしい句と云える。“マダガスカル”の“治安”をわたしは知らないが、それを“乱すな”ということは正当な等式で成り立っている。意味が通じるのだ。そしてそれを日本人であるササキリが命令しているから、この句はおもしろく、軽くなっている。ササキリの作品性のいいところだ。
それに「後書きのための三十七のアフォリズム」によって、私性を付け加えられた。意味が固定されたのだ。それが良いことか悪いことかはササキリが判断すればいい。しかし私性によってひとつの意味しか持たなくなったことは確かだ。
代表作の2句を見てみると、ササキリは詩情もしくは思想を大切にしている書き手なのではないかと推測される。そうでなければササキリはこの2句を代表作としなかったであろう。
2ササキリの作家性
川柳人であること
この句集には川柳または川柳人そのものを描写した句がある。
川柳人が“十七”という言葉を容易な選択で使うことはないだろう。とすればここにササキリの川柳の捉え方、関わり方があるに違いない。
一句目はあるはずのない手の、または欠けた手足の十七本の指を丹念に洗うことを描き、川柳の推敲などを想像させる。しかし字余り、字足らずを描きたかったのではない。その手は、その手足は十七本なのである。これは人の肉体に当てはめたものではない。ササキリの川柳人としての指なのだ。しかし十七音がササキリの身体と強いつながりを持っていることももちろん伺える。かといって体の部位を多用しているのでもない。これはササキリの精神においての“十七”なのだ。
それは二句目を見るとよくわかる。非常口とは自らの体の開閉を暗に示しており、ならば、それを開かずして十七音を詠む、というふうに読める。このとこはまた逆説的にササキリは川柳を体の芯から産み出しているとも云える。ササキリと十七音とが一体になっているとも云えなくない。
現実と幻想
ササキリは現実と幻想の狭間で創作を行っているのではないかと思われる。
ササキリの目の前には幻影に幻影を重ねた(またそれは霧のようにはっきりとしない)視界がある。掴むことも先へ進むこともできずに、そこに立ち尽くしているかのようである。
このことを念頭に置いて読んでいくとササキリは現実と幻想の境を“水”によって表現しているのではないかという考えにたどりつく。
これらはササキリが見ている幻想を読んだ句であろうが、すべて水に関係しており、さらにはどれも水面である。“泉”という“鏡”、“浴槽”、“ビルディング”の“窓”、“銭湯の水面”、“水鳥の目”はすべて平らな景の描写であり、またそれらは揺れを残している。これは水面を意味している、または水面と似た景としてササキリは認識していることの表れであり、それを現実と幻想の境とし、幻想側から見ているのだ。ならば
これはササキリの幻想から抜けだそうとする意志とも読める。湖という水面を壊し、その先へ踏み入れようとしている。ササキリはすでに湖に理性を渡している。それを打破したいのである。
また「浴槽これは青い倫理だ」の対になる句として
がある。水面が青であるのに対し、外界を繋がる窓(しかもこの場合は窓の中を云っているのではなく、外のことを云っていると思われる)は赤となる。ならば、安易な考えかもしれないが、青は水面を精神とし、赤は外界を肉体と捉えているとも云える。
ここにササキリの決定的な詩情が棲んでいるとわたしは考える。
しかしササキリは現実を放棄しているのではない。
“月逆”はタロットカードのことだろう。
たしかにどれも現実味を帯びているとは云えない。どこか他人事のように現実を見ている。しかし現実を放棄した人間が「死」を書けるとは思えない。
ササキリは現実と幻想のどちらかにいるのではなく、その狭間で揺れるものとはっきり浮かぶ「死」を見つめているのである。ササキリの詩情はそこにある。
また、これらについては「後書きのための三十七のアフォリズム」28を参照してもらってもよい。
懐古すること
ササキリの句には幼少の記憶を書いたかのような句がある。
どこかものさみしく、哀愁が漂う。しかしこれだけなら取りあげなっただろう。ササキリにはこれに加え、母親のことも書いている。
わたしはここに注目したい。まるでマザー・コンプレックスとも読める句は、幼少の記憶(上記の句)と繋がっているものなのか、それともまったく別の場所にあるのか。正直わたしには読み取れなかった。
幼少期や母親は単なるモチーフに過ぎない場合もある。ササキリに思い入れがあったとしても、句の数が少なく、容易なことは云えない。ただ、これはひとつのササキリの鍵になっているように思えて仕方がないのだ。
これからもこういった句には注意していきたいと思っている。
3一句評
句評
せっかくなので一句に対する評もしておこうと思う。
この句集にはよい句が多く収録されているが今回は
を読みたい。
これは恋愛の句だ。JR線で会いにいく人に恋をしているが、片思いである。でもそのときにだけ、この恋は表面化してもいいことにしている。そういったドラマが読み取れる。「のみ」で否定的な印象を受けるが、そのあとに「許される」と続くことで限定的な許容が産まれる。それをわたしは優しいと感じた。
そもそもこの句集は下ネタが多く書かれているのにも関わらず恋愛を書いた句は少ない。これは意外なことであった。その中で恋愛を書いたこの句はあまりにもやさしかった。
また“恋愛”ではなく“性愛”としたところがササキリらしい。恋する相手を性的に(それはセックスも含めて)見ている。それをササキリはあえて云う。そしてこれにはいやさしさがない。とても美しい恋愛の句だと思う。
まとめ
以上「馬場にオムライス」を通じてササキリユウイチを解体することを目的としてここまで書いた。わたし自身読み返してみてももっと踏み込めたのではないか、もっと解けたのではないかと思うところはある。しかしこれがいまのわたし評の力なのだとして受け入れるしかない。すこしでもササキリユウイチについて興味と理解が得られたらうれしい。
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詳しくはササキリユウイチX(Twitter)から
林はやについて
こちらのnoteを参照してもらいたい。