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パイオニアたちの遺伝子 

第1回 自然農法家 須賀一男・サカ江夫妻(ともに故人)

4世代にわたる自然食の食卓

50年前の1974年(昭和49年)10月から翌75年6月までの約8ヵ月半、朝日新聞の小説欄に有吉佐和子氏の「複合汚染」が連載された。連載中の4月に上巻、終了後の翌月7月に下巻が新潮社より単行本として出版され、大ベストセラーとなった。

「複合汚染」はレイチェル・カーソン氏の「沈黙の春」と並んで環境問題、有機農業の古典的作品として知られている。

 そして、この小説の中に須賀一男さんが登場する。

「コムパニオン・プランツについて、日本の一隅で、一人こつこつと研究を続けている篤農家がいる」の出だしで始まり、「理想の土というのは、山の土ですね。人間の耕したことのない大自然のままの土です。たとえば竹藪に入ると、足の下の土のやわらかさが違います。ふんわりとした絨毯の上にのったようですよ。ほら」というくだりが続く。

これまで「森の木々は肥料も農薬も一切必要とせず、自然のままで豊かに生い茂っている。その土が理想です。これは生きている土です」と語る何人もの有機農家に出会ってきた。

須賀さんのセリフが引用されているかどうかは定かではないが、「生きている土」が大切であるという考えは、色々な農法があるけれども、自然農法の農家だけでなく有機農家にも共通の認識となっている。

しかし50年前、さらに須賀さんが無農薬・無化学肥料の自然農法をはじめた1957年(昭和32年)当時、農業の世界は農薬を撒き、害虫を駆除することが当たり前になっていた。無農薬は周囲の田畑に病害虫をまき散らすとばかりに異端視され、非常識この上ない行為と敵視された。数少ない有機農家は全国至るところで村八分にされた。

「これから無農薬でお茶をつくるといったら、組合から即、追い出されたよ」と笑いながら語る無農薬・無化学肥料栽培45年の静岡のお茶農家。他でも「嫌がらせは日常茶飯事で、小屋に放火されたこともあったよ」とも語る。

さすがに現在ではそんな過激なことはないものの、まだ多くの農家が意識下では「無農薬、無化学肥料では米、野菜、果実はできないよ」という認識が根強くある。 

 そんな環境で異端を貫くのは並大抵の心の強さではないと想像するに難くない。それを支え続けるものは一体何なのだろうか。

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 須賀さんは大病を患うなかで聖書を読み、救いの道を探求し、健康を取り戻すには穢れのない清浄な土で健康な農作物を作ることだと気づき、岡田茂吉氏が提唱する自然農法と岡田式浄化療法を取り入れた。

 その考えを妻のサカ江さんと共有し、実践した。

 二人は普段からとことん相談し合っていた。土のこと、水のこと、天気のこと、草や虫のこと、玉葱、人参、米のこと、と。二人ともが自然をことごとく観察しているから、その変化の逐一を認識しているから話題が尽きることはない。考え、話し、考え抜き、対話し尽くして決めている。

 そして昭和46年、それまで表彰されるほど品質の良いものを育て、順調に営んでいた養蚕と養豚を一切廃業し、自然農での野菜と米作りだけに大転換した。長男の利治さんが中学生の時である。

「広々ときれいに整備されていた桑畑が一日で消えました。二人で考え抜いたことだろうと思いました」と利治さん。

周囲の人は「一男さんは気がふれたのか」と驚いたという。

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「農業をするからには、まず家族の健康であり、成長する子供たちの安心な食べ物を作ることが大切だ。しかし、自分だけでなく多くの人が食べ、病気から救われなければならない」

「家族の健康を守り子供たちを育てるのに、ぜひ自然食をさせたいと思ったが、自分だけ健康であって良いはずはない。日本中の、いや世界中の人たちに分けてあげて、みんな健康であってほしいと思う」

「一生をかけての農業だが、世の中の成り行きに逆行するようで気の遠くなるような思いだ。覚悟がいる」

これが正しいという尺度がない状況での船出であった。

「命は食にあり」と思い、「農民だから自分の手の感触だけで進むしかない」と覚悟した。

「まず、家庭内の争いごとはなくそうと努めた。“日本一の百姓になりたい”と主人と二人三脚の仕事が始まった」とサカ江さんの自分史「大地に抱かれて」(NHK学園刊)に綴られている。

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なぜ有吉佐和子さんが須賀さんに白羽の矢を立てたのかは知る由もないけれど、サカ江さんの著書を読むと健康を蝕まれ、幸せに生き、生活する土台であるはずの大切な家族、家庭、そして食卓が崩壊していく世の中に心を痛めながらも、優しいまなざしで自分の家族の向こう側までも寄り添っていたのが伝わってくる。

「複合汚染」に「須賀さんの奥さんは微笑しながら、ちょっと小さな声になって“私はこの農法で、人間をどのくらい丈夫で長生きさせられるものか見てみようと思っているんですよ”と、きっぱり言った」と書いている。

覚悟の凄みとしたたかさを吐露した瞬間であり、魂の声を聞き逃さず掬いあげた煌めく瞬間のような気がした。

 その証しは、この家族はそれからの50年間、自然農法の野菜、米を育て続け、いただき続け、分かち続け、それが今も当たり前に続いていることだ。

須賀一男・サカ江夫妻が企てた笑顔の食卓がここにある <つづく>

 

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