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210624【メガネノチカラ】

高校2年生が終わる3月、冬季期間中にパワーアップすることなく、プロ野球選手OBの本ばかり読んでいた自分。ただ、相も変わらずサボっていることすら誰にもバレないロードワークは続けていて、いつの間にかチーム内で一番太い太ももを手に入れた。下半身はすっかりどっしりしている。

外を見ると、すっかり雪は溶け、他校との練習試合が毎週組まれ、春季大会のベンチ入りをかけて争いが始まった。自分は現状キープを目標に、ピッチャー2番手を死守する。ストレートは高校1年の秋に肩を壊して以降120キロちょいしか出なくなり、小手先でなんとか相手バッターを抑えてここまでやってきた。そんな3月、平日の午後、職員室、野球部の監督に提出物を届けに行った際、監督にアドバイスを受けた。そそくさと帰ろうとしたのに。

「おい、お前、目が悪いだろ。」

「はい。」

「メジャーリーグって映画、観たことあるか。」

映画「メジャーリーグ」。土曜日の夜にテレビで観たことがある。調べると、もう30年以上前に公開された映画だ。そうそう、続編となる「メジャーリーグ2」でとんねるずのタカさんが出演していることで結構話題になったし、野球選手、野球ファンであれば、一度は観たことがある映画だと思う。あと、思い出すのはバブル期のイケイケなCXの「ヒーローインタビュー」という映画もこの枠で観た。この映画はエンタメがスゴすぎて、参考にならなかったけど。映画「メジャーリーグ」の中で、主人公のリッキー演じるチャーリー・シーンが、眼鏡をかけたのを機に見違えるピッチングを披露し、一躍リーグを代表するピッチャーになる。とストーリー展開がある。

「メガネをかけたらどうだ。」

メガネをかけたら、お前もリッキーみたいになるんじゃないかと、監督からアドバイスをいただいた。

「はい、やってみます。」

顔面にコンプレックスがあり、メガネをかけることに抵抗はなかったが、どうしても試合中にかけると、邪魔になるんじゃないかという印象があったが、監督の指示でもあるし、もしかしたらホントに映画のシーンのように変わるんじゃないかと思い、自分はまず、視力検査に眼科に行った。自分は左右の視力が異なり、右ピッチャー右バッターであるのに、相手ピッチャー相手バッター側となる左目の視力が悪く、対して右目は標準の視力だった。この視力の低下は中学3年時の昼休みに野球で遊んでいて、左目にボールをぶつけてしまい、そのまま午後の授業は休み、隣町の病院に行き、眼球にキズができている、と診断されたことがあり、それ以降なのだろうか、どうも左目の視力の低下が著しくなった。なんとかボールを見よう、相手バッターを見ようと、首を捻り、両目で見る、右目で見る、ということをしていたが、抗うのもそこまで、メガネをかけることを選択した。眼科にて、お試しとして初めてコンタクトレンズを付けてみたが、大涙を流し、すぐに外した。これが今のところ、人生において唯一のコンタクトレンズだ。どうも抵抗がある、ガラスなりプラスチックなり、体内に入れて生活する、というのは。メガネで良い、いや、メガネが良い。

眼科を出たその足で、町の眼鏡屋さん兼時計屋さんに入った。その当時、5000円くらいで買えるメガネチェーン店は既にあったのかもしれないが、田舎町にはなかった。同級生の実家がやっている商店街にあるお店に入り、「いつもお世話になっております。」からメガネ選びが始まった。ただし、完全なファッションではなく、野球をする際に着けたいんです、東北高校のピッチャーみたいな感じです、海を渡り、映画のシーンになるとメジャーリーグみたいなやつです、とオーダーはしてないが、シンプルなグレーのセルフレームのメガネを購入、ズレが生じないよう、耳にかけるシリコンのストッパーを付けることにした。そこから、野球をやる際は、ずうっとメガネである。授業、勉強のときは裸眼、放課後、学生服から練習着に着替え、グランドに行く際にメガネをかける。野球の時だけメガネ生活が始まった。最初は、チームメイトから「どうしたのお前。」と誂われたが、「監督からの指示で。」と回答、メガネ姿で監督に挨拶をした際は「良いじゃないか。」とご機嫌だった。自分は監督の機嫌取りのためにメガネをかけているのか、まあ、それも一興なのか。

ともかく、視界が開けた。レンズ越しに見える景色は新世界だった。こうもモノがはっきり見えるのか。それは野球をやっていても明確に感じた。マウンドからキャチャーのサインがはっきり見える。これは指一本なのか、二本なのか、それ以上なのか曖昧だったときもあったが、メガネをかけたらはっきり見える。距離感も分かる。強めの度数を入れてないため、酔う心配もなさそうだ。そんな練習後に、監督が全部員の前で話し出した。

「先に伝えておくが、俺は3月限りで転任になる。今までありがとう。」

ビックリしたのもあったが、田舎の公立高校、監督は今の高校の前に赴任していた高校で甲子園出場を決めているその自分たちの県では名監督で、今の高校に来ても丁度10年が経つ。転任、異動は時間の問題だった。

「4月からもバリバリの野球部の監督が来るから、引き続き頑張ってくれ。」

離任式や校内の情報より先に、監督は教えてくれた。4月1日からは、隣の市の工業高校の野球部の監督が自校に赴任するようだ。ううん、まあ、仕方ないか。部員の中には、別れが惜しく、また、甲子園に連れて行きたかった想いもあり、涙する部員もいたが、自分は冷静に考えていた。おいおい、最後の指導が、「もっと下半身を使って投げろ。」や「もう少し軸足に体重を残してインパクトに入れ。」みたいな技術的な指導ではなく、「メガネをかけたらどうだ。」だった。荒療治が過ぎる。監督、僕にも何か、個別指導を。と思ったが、また一つ痛い課題が出てきた。

新監督になったら、レギュラー争いはまた1から始まる。ということだ。

野球部部長の若手の先生が良いつなぎ役をしてくれるが、新たに来る監督は、1から選手を見てメンバーを選ぶ、とのことだった。ちょっと複雑な気分。2番手を死守すること、メガネをかけてパワーアップしたのか分からないが、4月、春季大会まで時間のない中、レギュラー争い、というよりベンチ入り争いは加熱することになった。

4月1日、学校は春休みで朝から夕方まで野球三昧の一日に、新監督がグランドに立った。身長は前監督とは違い180センチあり、もちろん自分より高い。また、色々な噂話も入ってきた。

「気合を入れるために手を出すこともあるらしいぞ。」

「試合中にエースをベンチ裏に呼んで、叱咤激励に何をしたか知っているか?」

等、おいおい、そんな熱血監督勘弁してくれよ。と思いながら、キャプテンから部員の自己紹介が始まった。学年と名前とポジション、あと一言みたいな。自分の自己紹介は早々に、その後の練習の中で、監督と会話をすることがあった。

「お前のこと、知ってるぞ。前の高校の際、話題になってたぞ。アイツと選抜チームで同僚だったらしいな。」

SNSがまだ未発達な時代、「爆サイ」は確かあった頃だが、情報は何処からともなく渡ってくるものだ。

「はい、彼とは選抜チームの際、仲良くやらせていただきました。」

ここに来て県選抜だった中学3年生の夏の実績が活きてくるのか。知名度でベンチ入りに入れるなら越したことはないが、どれだけ彼が自分のポイントを上げてくれたのか分からないが、とりあえず、ちょっと感謝だ。

新監督になって初戦となる体外校との練習試合は、昨年秋のベンチ入りメンバーを中心に部長先生からの引き継ぎ書類を元に先発メンバーが発表され、自分はいつも通り2番手に投げることになった。相手校は何処だったか忘れたが、なんとか無失点に抑えることができ、ホッとしていた。メガネの効果があったかは、どうも分からない。ただ、この春の自分はホントに調子が良く3月から4月と跨ぐが、20イニング以上無失点投球を続けていた。その結果をもとに、春季大会の最終ジャッジとなる県外遠征、福島に行ったのだが、その際の試合では、1試合目の先発ピッチャーとして登板した。そうそう、この福島遠征が新監督となって初の外泊、下宿先に1泊したのだが、夜と朝の食事の際、ピッチャーはご飯5杯のノルマが無くなった。

「今日は胃袋を鍛える食い合宿では無い。明日の試合に向けてコンディションを整えてほしい。」

食事前に監督から指示があり、自分はいただきますの手で小さな拍手をしていた。

さあ、福島での試合だ。その日の朝もご飯はいつもなら5杯のところ、2杯で済ませ、ゆっくり美味しく味わい、球場入りした。少し朝霧が残った市民球場。ほぼベンチ入りは当確、なポジションだったが、高校野球をやっていて一番調子が良く、投げていて打たれる感覚があまりなかった。ストレートは120キロちょっとだが、スライダー、カーブ、シュートをかけるツーシームと、自慢のチェンジアップが効いていた。周りから「ヤグチェン」と言われ出したのもこの頃だった。チームメイトに留まらず、同県内だと対戦校にもヤジで言われ出すくらいだったのは、ちょっとした自慢。また、チームメイトから県外キラーとも言われていた。多分、自分が変則過ぎて、初物についていけないんだろうと、それも自負していた。

4月の福島、相手は甲子園出場経験校だが、ここも良いピッチングをして、ゴールデンウィークの春季大会に備えよう。メガネから見えるキャッチャーのサイン、コースに構えたキャッチャーミット、相手バッター、そこは自分がコントロールできる一つの世界。

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