『ことり』『猫を抱いて象と泳ぐ』
本の読み方は人それぞれだろう。
わたしの場合、物語についてはあまり考えずに読むようにしている。
その世界に埋没するようにして読む。
(意図せずとも自然にそうなってしまう本が、わたしにとっての良い本だ。)
とにかく、先入観を持たないことだ。
そのためには、作者の名前を見ない方がいいかもしれない。
作品の外側に立たない。
作品と対峙しない。
素直に読む。
違和感は違和感のまま、その正体を探ったりはしない。
膨大な設定が具体的に活かされないとか、直接的に意味を持たないとか、伏線が回収されないとか、著者の意図はどこにあるのだろうとか、そういうことには一切注意を払わない。
いい加減な読み方、と言われても仕方がない。現にこれは言い換えれば「何も考えないで読む」ということなのだから。
本の種類によっては、そのような読み方は全くそぐわないだろう。例えば、物語であっても推理小説などはどんな些細な描写も見逃さず、それが犯人特定のヒントかもしれないと考えながら読むのが本来の読み方であろう。
言葉というのは、論理を提示し、伝えるための道具であり、そのために使うのでない言葉は役割を果たしていないと思って生きてきた。だから、曖昧な言い回しは嫌いだし、余分な装飾も要らないと思ってきた。
歌詞などは支離滅裂なものがほとんどで、全く何も伝え得ないと考えていた。小説も同様で、あらすじが追えるように書かれてあればいいと思っていた。装飾的な言葉はまさに飾りで、余分な格好付けだと捉えていたように思う。
俳句や短歌や詩に至っては、まったく理解出来ないが、理解する、という態度が間違っているのかもしれないと思うようになってきた。
転機になったのは、漫画『海獣の子供』だ。
「大切なことは言葉にできない」
この漫画において重要な言葉で、映画化にあたって米津玄師が作った主題歌にも繰り返し使われたフレーズだ。
(ちなみにわたしは、この主題歌『海の幽霊』が、米津玄師の楽曲の最高峰だと思っている。そして映画よりもこの曲のMVの方が優れていると思う。)
漫画の中で、鯨は感じ取った全てを"ソング"によって伝え合っている可能性がある、という指摘があった。
そして、詩や歌が、それに近いとも言っていた。
それを読んではじめて、言葉に論理の展開以外の役割があるということを認識し、詩や歌詞にポジティブに向かい合ってみようと思うようになった。
こんなことは、多くの人にとっては当たり前なのかもしれないが、わたしにとっては目から鱗だったのだ。
確かに、感じ取ったことを全て言葉にするのは不可能だろう。論理的な内容であっても、誤謬なく伝えようとすれば、込み入った文章にならざるを得ない現象も多く存在するだろう。
ある種の小説は、実は鯨のソングに近いのではないだろうか。
沢山の言葉を使ってさまざまな描写を積み重ね、組み合わせて、何か具体的な言葉にはならないことを伝える手法。
小川洋子の小説を読んでいると、そのような考えが頭をもたげてくる。
著者の本は、本稿タイトルの2作以外にもいくらか読んでいるが、この2作が特に印象に残ってる。そして、わたしの乏しい読書経験の中では最良のものである。
この2作、兄弟のように感じるが、しかし、全く別物のようでもある。
冒頭に述べたように、あまり細かいことに注意を払わず、心に降り積もらせるようなつもりで読んでいる。だから、その印象を述べることしかできない。つまりここから先は読んでもあまり意味はない。
『ことり』は、物語全体が凝縮されて、一粒の小さな、とても美しい結晶のような、透き通った星のような、そんな状態で心の中に存在している。ことりのおじさんと、お兄さんと、ブローチと、全部がひとつに固まっている。それはもう本当に美しい一粒である。
『猫を抱いて象と泳ぐ』は、やはり美しいものとして残っているのではあるが、一粒に凝縮されてはいない。美しいと感じるのも、物語全体に対してではなく、ある特定の場面に対してである。
最も強く印象に残っている場面は、亡骸となった主人公と、主人公がミイラと呼ぶ女性とがロープウェイですれ違ってしまう場面だ。しかし、この場面を読むことによって起こる静かで強い哀惜の念は、この場面に至るまでに語られてきた様々な場面や情景が下位のレイヤーとなって積み重なることによって生み出されているように感じる。
『ことり』ももちろん様々な描写があり、それらが重なっているには違いないのだが、こちらは光の3原色のように重なることによって透明になっていくかのようだ。
その対比として語るのならば、『猫を抱いて象と泳ぐ』は色の3原色なのかもしれない。
この2作品を読み終わった後、わたしが発することができた言葉はなかった。
ただただ深い吐息である。
何も言えなかったのである。
このような読み方は、ある種、逃避的な読み方とも言えるだろう。怠惰と言おうか。
わたしの人生は逃げっぱなしで怠惰なものだが、こんなところにも生き方の癖が出ているだけなのかもしれない。
しかし、読書というのは、本の種類にもよるが、ある意味では現実逃避でもある。折角逃げ込んできたのだから、風呂のようにどっぷり浸かってもいいではないか。
こんな読まれ方をして、著者はどう思うだろうか。きっと苦笑するに違いない。
伝えたかったことが伝わったのかどうかさえわからないじゃない、と。
全然全く伝わってないかもしれないし、意外と伝わっているかもしれない。それは誰にも分からない。わたしが感じ取ったことを伝えるための言葉を操る力を持っていないからだ。実のところ、小川洋子のような才能のある人が、たくさんの言葉を連ねてやっと伝えられる可能性がある、という程度なのではないだろうか。
だから、伝えられないことを気に止む必要はない。
近頃はAmazonのレビューやYoutubeのコメントを見ているとなんとも言えない気持ちになる
こき下ろしたり、褒めちぎったり。
事細かに分析したり、得意顔で解説したり。
そして、それを読みたがる人もまた多いのだろう。それはきっと、自分の感じたことを誰かうまく言葉にしてくれていないだろうか、と思うからだろう。答え合わせのような側面もあるだろう。わたしの読み方は正しかったのだろうか、と。
その気持ちはよくわかる。
だが、わたしはそれをやめた。
物語は、読んだわたしのものだ。
書いたのは著者だが、それでもやはり、わたしが読んだからには、それはもう、わたしのものなのだ。
何も心配は要らない。