はじめての政治哲学 「正しさ」をめぐる23の問い 第1章 2 カント倫理学
人命救助は義務か?
線路内に転落した人を助けようとする例。
カントは功利主義のような損得勘定をするような発想を非難する。
そしてむしろ線路内に飛び込むことを奨励するに違いない。
なぜカントは、人にそこまで厳しい要求をするのだろうか。
功利主義批判
効用計算は人間を他者の幸福のための手段とみなすことで、人格の固有の尊厳を損なうことになる
効用というのは、ある時点での利害、必要性、欲望、選好といった経験的な要素にすぎず、偶然に左右されがち
以上の理由から、普遍的な道徳原理の基準にはならないと主張。
自律
ではどのような基準が望ましいのか。
カントは人間の自由を最大限尊重している。
カントのいう自由とは、自然や社会の掟に左右されるのではなく、あくまでも自分の定めた法則にのみ従って行動することにほかならない。
カントは、自律的に行動している時はじめて、人の行為は道徳的であるという。
さて、ここで問題となるのは、理性が定める法則の中身である。
それは誰もが納得のいくものである必要がある。
これが『道徳形而上学原論』(1875)において論じられる著名な「定言命法」という考え方である。
定言命法
「もし〜を欲するならば、〜せよ」というように、あらかじめ設定された何らかの目的を前提とし、その目的を実現するために必要な手段としての行為を命ずる「仮言命法」ではだめ。
カントが要求するのは、たんに「〜せよ」という定言命法に他ならない。
定言命法は、行為以外のいかなる目的をも前提せず、行為そのものを無条件に命ずる。
この定言命法を法則化すると、万人に当てはめても矛盾が生じないような原則にのみ従いなさいということである。
しかし、この法則だけでは必ずしも道徳的な意味で妥当な結論を導くとは限らない。
人格の尊厳性
そこでカントは、行為の道徳性の実質的な根拠を、個々の人間の人格の尊厳性に求めた。
では、なぜ人格は絶対的な価値を有すると言えるのだろうか。
それは人間が理性という合理的推論能力を備えた素晴らしい存在だから。
理性の国家
カントは、理性が社会全体を変えることができるとさえ考えていた。
「理性の公共的使用」
理性の公共的使用の方法は、教養のある人が読者層全体に向けて自由に発言することである。
理性の公共的使用こそが、啓蒙された理想の国家をつくる力となる。
理性をもった個々の国民の意志の結合体としての普遍的な主権者が国家を治めるという構想である。
カントの理想主義を生かしながら、それでいて現実に即した社会を築いていくにはどうしたらよいか。
道徳に溢れる社会
カント倫理学は、道徳に溢れる社会をつくることの大切さを示してくれる。
いま道徳のない社会に慣れてしまって、誰もが個人主義化しているような気がしてならない。
そこで、次に「リベラリズム」思想を概観する中で、個人主義について考えてみたいと思う。