Michael Breckerの名盤 (5) Michael Brecker/ Michael Brecker:評伝エピソードを交えて
私がジャズサックスに傾倒するきっかけとなったテナーサックス奏者、Michael Breckerの評伝「マイケルブレッカー伝 テナーの巨人の音楽と人生」が刊行されました。
というわけで、評伝のエピソードを挟みながら、私の好きな名盤、名演を紹介しようという企画です。今回はその5回目。当然ながら、評伝のネタバレもいくらかありますので、ファンの皆さんはまずは評伝を買って一読することをお勧めしますし、そこまでは、という人もこの記事で評伝に興味を持ってもらえると(そして買って読んでいただくと)幸いでございます。
今回の名盤:
Michael Brecker / Michael Brecker
今回は、マイケル・ブレッカー初のリーダー作、自らの名前をそのまま冠した、"Michael Brecker"です。本当はもう少し後のアルバムを採り上げようと思ったのだが、間が空きすぎるとエピソードが書ききれないので、とりあえず無難なところで本アルバムを選んだ次第。
5.1 活動再開とEWIの導入
麻薬渦から抜け出したマイケル、仕事のペースを落としつつ、徐々にシーンに復活していく。パーマネントバンドとしての当時のメイン活動は"Steps"から改名した"Steps Ahead"、1983-84年にはヨーロッパへのツアーも行っているようだし、前回書いた通り、1985年の夏には日本にも来ている。
覚えている方も多いだろうが、当時のマイケルはサックスの演奏の際に、首に巻きもののようなものを巻いていた。前回書いた「喉の病気」対策だが、評伝に寄れば「咽喉部のヘルニア」だそうで、大学時代ロックバンドで無理をして大音量を吹いたのが原因とのこと。1973年に手術をしたが、それがどうも失敗だったようで、その後悪化して、喉の痛みでサックスが吹けないようなこともあったようだ。この1983年の映像では首になんか布を巻いてますね。イリアーニ可愛いな。
マイケルが、トレードマークになっていたデュコフではなく、デイブガーデラという聴いたことのない職人のマウスピースを使っているようだ、という話が出たのもこの頃かもしれない。評伝によれば、マイケルがデイブガーデラに相談して、ノドに負担をかけないよう特殊に設計したマウスピースを作った、ということだったようだ。
そんな状況のマイケルが手にしたのが、通称スタイナーホーン、ナイルスタイナーという人が作ったEWI(Electric Wind Instrument)だった。興味を持った動機のひとつを、マイケルはサックス奏者/教育者で後にマイケルブレッカーアーカイブのキュレーターになったデヴィッド・デムジーに、当時こう語っていたという。
結局、喉の痛みに関してはマウスピースや奏法を工夫して対応できたようだが、そんな中でたまたま試したEWIがマイケルの音楽に新たな幅と革新性をもたらしたのはご存じの通り。
映像を検索してみたがEWIを本格的に人前で使い始めたのは1985年のようだ。前回リンクを張った斑尾ジャズの年ですね。改めて、あの放送を観たときには格好いいと思いつつ、「(テナーだけで何でもできる)あのマイケルブレッカーが電気サックス?」などと不思議に感じたものだ。ついでに斑尾の一カ月ぐらい前の映像をもう一つ。もう、音源用でそれなりに巨大なラック組んでるのが分かりますね。
ついでに、初期のEWI名演。ベースのエディ・ゴメスのリーダー作から"Delgado"という曲です。これは、1985年11月に日本で録音されたらしい。メンバーは、ピアノ佐藤允彦、ベースエディ・ゴメス、ドラムスティーブ・ガッド。
この人たち、何しに日本に来てたんだかわからないけど、その時のものと思われる隠し撮り映像があります。同じメンバーで"Invitation"!!!(EWIじゃないけど)
ちなみに、私は前書いたように、卒業旅行という名目で1986年2月ごろにニューヨークを訪れている。ニューヨークのライブ情報が載っているコミュニティ新聞Village Voiceで、なにやらマイケルが大学で講義のようなもの?(今考えると"Master Class"だったんだろう)をやるという小さな告知を見つけて観に行った。当時英語ができなくて、喋っていることは文字通りチンプンカンプンだったが、模範演奏でテナーのほかスタイナーホーンも吹いて、生で拝むことができたのだった。その時はホーン本体にアタッシュケース一つぐらいの音源のセットで、手作り感満載だったのを覚えている。写真どっかに残ってないかな。
いずれにせよ、もともと凝り性で、しかもなんとなく理系の匂いのするマイケルとEWIは非常に相性が良かったようで、しばらくはEWIの演奏やプログラミングに没頭し、その後数年で前人未到の領域まで突き進むことになる。その後EWIに手を出したミュージシャンは多いが、いまだにこの楽器をマイケルのレベルまで使いこなしていた人はいないと思っている。日本でやってる人たちもみんなせいぜいT スク、、(以下略
5.2 初リーダー作の制作へ
新しい武器、スタイナーホーンを手にしたマイケル、1985-86年ごろはバンド全体で急速に電化しつつあったSteps Aheadが主な活動の舞台だったのだが、この頃からリーダー作の構想に取り掛かる。実際には、Steps Aheadの活動に煮詰まったマイク・マイニエリがしばらく活動休止を宣言してトリガーを弾いたらしいのだが、とにかく「準備は整った」ということだったらしい。
当時のマイケル、すっかり体調を取り戻し、Steps Aheadの演奏は各地で大好評、ちょっと前のチックコリアやパットメセニーのアルバムでシリアスなジャズファンからも評価がされつつあるという状況であり、評伝によれば主要なメジャーレコード会社から引く手あまた、だったらしい。ともかくMCA-(新生) Impulse レーベルでの制作が決定し、1987/4にリリースされることになる(日本ではちょっと遅れて1987/6?だったらしい)。
5.3 1987年4月: 衝撃の日本ライブ
アルバムの紹介に入る前におまけ情報、っていうか、今回はここがメインw
評伝では全く記載がないのだが、初リーダー作のリリースに先駆けて、マイケルは1987/4に自身初のリーダーバンドで来日をしている。当時バブルの入り口にあった日本で、電子楽器メーカーAKAIがマイケルが使っていたスタイナーホーンに目を付け商品化を行い、それのお披露目とプロモーションのためにマイケルのリーダーバンドまるごと連れてきて原宿ラフォーレで無料ライブ(!!)が企画された。ついでに六本木ピットインでも二晩にわたりギグがブッキングされたわけだ。
当時茨城県北に住んでいた私、土日にわざわざ東京に出て行ってラフォーレで2セット、それに飽き足らず平日の夜仲間と車を飛ばして六本木ピットインで1セット観戦した。他にも何回か書いているが、私の人生でも一二を争う衝撃的なライブ体験だった(特にピットイン)。
メンバーはマイケルにマイク・スターン(g)、ケニー・カークランド(Key)、ジェフ・アンドリュース(b)、オマー・ハキム(ds)。もう名前書いてるだけでぞくぞくしてくるw。
評伝によれば、マイケルは初リーダー作のリリースに向け、レギュラーバンドを編成し、前月の1987年3月下旬に米国でデビューギグを行っている。ただし、その時のドラムはその後長く活動を共にするアダム・ナスバウムだったようで、日本のライブに限ってなぜオマー・ハキムが来たのかは定かでない。オマー・ハキムは1982-84年にかけてWeather Reportで衝撃のドラミングを披露し、その後ケニー・カークランドと共にStingの初リーダー作およびツアーに参加して、ロックスターに近い扱いだったはずだ。そんな人がなぜトラ扱いで日本にやってきたのかは謎だ。Stingのバンド仲間のケニー・カークランドに頼まれちゃったのか、当時の日本企業、唸るほど金があってギャラが異常に良かったのか。まあ、とにかく、オマー・ハキム参加(および後で書くケニー・カークランド脱退のタイミング)のおかげで日本のファンだけがこのスペシャルバンドを目撃できたわけで、実に幸運と言えよう。
比較的最近だが、その時の映像が発掘されてYou Tubeに上がった。これ、まさに私が観た夜の演奏だと思います。いったい誰がどうやって撮っていたのだろうか。いずれにせよ、その後のリーダーバンドに通じる、いや、ケニーカークランドとオマーハキムが入っているおかげで、その後のバンドにとはちょっと違う種類の異常な盛り上がりのイケイケジャズが聴ける。
※追記:このライブを観た直後の週末、水戸で、一緒に行ったバンド仲間とのライブがあったのだが、そこで無理やりこの"Nothing Personal"をコピーして演奏した覚えがある。間違いなく日本初、いや、もしかすると世界初だったかもしれないw 以来、ずっと演奏し続けているわけだが。
ここで注意したいのは、このライブ、リーダー作リリースの直前だった、つまり、どの曲も我々日本のファンにとっては初めて聴く音楽だったということだ。この他にもリーダー作から"Syzygy" や"Original Rays"、マイクスターンのリーダー作から"Upside Downside"などもやったのだが、どの曲もジャズともフュージョンともいえない、異常なエネルギーを持った音楽&演奏であり、その場にいた全員が曲が始まるたびに腰を抜かしたといっても過言ではあるまい。大げさに言うと、この手の音楽の未来は明るいと思わせるような何かがあったと思う。
ちなみに、この時(ピットインライブ)の音源手元にあります。ナニをナニしていただければナニいたしますのでお問い合わせくださいw
5.4 Michael Brecker / Michael Breckerを聴いて
ようやく今回の本題。
「待望の」リーダー作は、朋友ドン・グロルニックをプロデューサーに迎えて、パット・メセニー(g)、ケニー・カークランド(p)、チャーリー・ヘイデン(b)、ジャック・デジョネット(ds)という、どちらかというとアコースティックジャズ寄りのオールスターメンバーを集めて制作された。今、改めて聴いてみると、実にシリアスなコンテンポラリージャズに、EWIを加えて色とバリエーションと付け加えた、実にバランスのいいアルバムだと思える。評伝で、マイケルの妻スーザンは「最初のアルバムは、彼にとって大事なものでした。あのアルバムが、彼のその後のキャリアの流れを作ったのです。」と語っているが、確かに、メセニー、デジョネット、チャーリーヘイデンはその後も要所で(メセニーとデジョネットは遺作に至るまで)マイケルの作品に参加しているし、その後のリーダー作全般を眺めても、この路線からあまり外れていなかったともいえる。
しかし、当時このアルバムを入手した私ーすでに六本木ピットインのイケイケリーダーバンドで新曲を聴いていた人間ーからすると「なんか地味だな」というのが偽らざる感想であったw。まあ、こっちも若かったので、単純に派手なのが良かったということであろう。
いずれにせよ、このアルバムは米国のジャズチャートで10週連続1位を獲得し、米国内やヨーロッパでのクラブギグも盛況ということで、現代ジャズプレイヤーとしてのマイケルの評価を確かなものにしたのは間違いのないところだろう(日本ではまだ色物扱いだったがw)。
5.5 イケイケリーダーバンドで快進撃
さて、日本から帰った直後の1987年5月、ケニーカークランドが「Stingのツアーに誘われたから」という理由で脱退を余儀なくされる。そりゃそうだ。ギャラ10倍ぐらい出そうだもんね。結局、ケニー・カークランドがマイケルリーダーバンドに在籍したのは2カ月弱で、生で観ることができた我々は実に幸運だったわけだ。
代役にマイケルは、20歳そこそこのピアニスト、ジョーイ・カルダーラッソを抜擢。ドラムのアダム・ナスバウムも含め、鉄壁のクインテットを編成して、その後2-3年はそのバンドでの活動が中心となる。マイク・スターンとジョーイという、ジャズ史に残るイケイケソリストを要したこのバンド、各地のジャズフェスでも大人気だったようで、映像もあちこちに残ってますね。今観てもやはり燃えるものがあります。歳だから長くは観てられないがw
その後、マイケルはこのレギュラーバンドを続けながら、2枚目のリーダーをリリース、そのほかにもハービーハンコックバンド等々様々な活動に参加して、充実した80年代後半を過ごすことになる。
1989年の映像。Nothing Personalが異常なテンポになってますね。マイケルのひと吹きでいきなり始まるのも格好良いねえ。
同じライブから"Original Rays" イントロで気の狂ったようなEWIのソロパフォーマンスが観られます。マレーシアでこれの猿真似したのも良い思い出w。
これは、1987年だから、六本木ピットインライブのちょっと後のライブ音源。正式盤なのかよく分からないけどサブスクで聴けます。
さて、今回はここまでかな。
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