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Michael Breckerの名盤 (4) Cityscape/ Clous Ogerman:評伝エピソードを交えて

私がジャズサックスに傾倒するきっかけとなったテナーサックス奏者、Michael Breckerの評伝「マイケルブレッカー伝 テナーの巨人の音楽と人生」が刊行されました。
というわけで、評伝のエピソードを挟みながら、私の好きな名盤、名演を紹介しようという企画です。今回はその4回目。当然ながら、評伝のネタバレもいくらかありますので、ファンの皆さんはまずは評伝を買って一読することをお勧めしますし、そこまでは、という人もこの記事で評伝に興味を持ってもらえると(そして買って読んでいただくと)幸いでございます。

今回の名盤:
Cityscape/ Clous Ogerman

今回は、米国の作曲者/編曲者クラウス・オガーマンのアルバムにマイケルが客演した"Cityscape” です。客演といいつつ、オーケストラをバックにマイケルが一人でテーマを奏で、ソロを採る。当時まだリーダーアルバムのなかったマイケルにとって実質的な初のリーダーアルバムとも言えるようなこのアルバム、例えばマイケルベスト5アルバムと問われたとき、多くの古いマイケルファンがリストに入れるであろう隠れ名盤ですな。私もその一人だし、なんならナンバーワンにするかもしれない。
改めて考えてみると実に特殊なアルバムだ。全編、暗くて地味で小難しい映画音楽のようなオリジナル曲で、B面は組曲。上に書いたように静かなストリング中心のオーケストラをバックにマイケルが吹くだけ、曲調は基本的にずっと同じ。ジャズの歴史を見渡しても、似たようなアルバムはほとんど無いような気がする。純粋にマイケルを堪能できるという意味で貴重なアルバムともいえるが、このアルバムのファンが多いのは、当時の時代的な背景もあるかと思うので、評伝のエピソードを交えながらそこら辺も意識して書いてみよう。


4.1 マイケル、麻薬渦からの脱出

前回書いた通り、80年代初頭に完全にヘロイン中毒になったマイケルであるが、周りの人間の説得もあり、どうにか抜け出そうと試みる。とはいえ、中途半端な試みはことごとく失敗に終わり、ついにリハビリ施設で長期間にわたる治療を受けることを決意する。その時、マイケルが当時のジャンキー仲間で、後にマイケルのロードマネージャーとなるジェリー・ウォートマンに語ったという言葉を引用。若干の脚色が入っているような気がしないではないがw、相当悲壮な決意だったのは間違いなさそうだ。

「ある夜、彼(マイケル)はこう言ったんだ『もしこれができないなら、もしこれでヤクを断つことができないなら、音楽をやめるよ』
ジェリー・ウォートマン

マイケルブレッカー伝

というわけで、マイケルは1981年12月2日から5週間、フロリダ州の麻薬リハビリ施設に入院する。実は、その入所前日、マイケルは、やはりフロリダで行われたジャコ・パストリアス、ワードオブマウスビッグバンドのバースデーコンサートに出演している。ジャコの死後、1995年に音源が発掘されてCD化(下のリンク)された伝説のライブですね。

ソリストとしてボブミンツァーとマイケルのツートップがフューチャーされたこのライブ音源、とにかくマイケルのソロが強烈だ。使い古された表現だが「鬼気迫る」というのがしっくりくる。マイケルベスト5の例えで言うと、このアルバムのプレイをマイケルの生涯ベストソロとして挙げるファンも多いと思う。特に"Invitation" と "Domingo" のソロは、ジャズテナーサックスソロの歴史に残る、と言っても良いだろう。今聴いて、また興奮してしまった。
さて、こんな恐ろしい演奏を残したマイケルだが、ご当人の言によれば「強力な中毒と戦っていたので。そのライブの記憶はかなり曖昧」だそうな。ヘロイン恐るべし。
さて、その5週間の入院を経てマイケルは「クリーン」になることに成功し、その後は薬物に一切手を出さなかったという。それだけではなく、当時、周りのミュージシャンをはじめとする多くの人間を麻薬漬けの生活から立ち直らせる支援をし、業界のクリーン化に多くの貢献をしたということだ。一般にはあまり知られていなかったこの事実に関し、評伝では結構なページ数を割いてその具体的な例や、多くの証言者のコメントを載せており、マイケルの人となりを理解するという意味で、今回の評伝の裏テーマになっているとも思える。詳しくは評伝を読んでいただきたいが、ひとつだけボブ・ミンツァーのコメントを引用。

「彼は間違いなく音楽的なムーブメントを起こしたが、同時にニューヨークの音楽界に、薬物から抜け出るというムーブメントも起こしたんだ。誰もが彼を尊敬していたし、彼がクリーンになったことで、みなが立ち止まり『クソ、もうそろ潮時なんじゃないか』と言い始めた。」
ボブ・ミンツァー

マイケル・ブレッカー伝 より

クリーンになったマイケルであるが、リハビリ施設からの復帰後は、しばらく仕事を抑えた生活を送る。1983年と1984年には、外に出て「穴に落ちる(再び薬に手を出してしまう)」のを防ぐために、テレビ番組「サタデー・ナイト・ライブ」のハウスバンドの仕事を受け、基本的にはずっとニューヨークで過ごし、録音仕事なども最低限にしていたようだ(といいつつセブンス・アヴェニュー・サウスではSteps Aheadの等でそれなりにライブを行っていたし、ドナルド・フェイゲンの名盤、ナイトフライの”Maxine”での名ソロを録音したのは1982年だが)。

4.2 日本のファンからの視点

さて、私を含む当時の日本のファンは、マイケルがヘロイン中毒だったり、リハビリ施設に入って更生したり、などは露ほども知らなかったが(業界関係者は知ってたかもしれない)とにかくマイケルを心配していた。前回書いた通り、1980年-81年に掛けて、マイケルは重要な音源を次々とリリース。日本にも演奏活動のため頻繁にやってきていたのだが、1982年2月のStepsの来日※後、動静が見えなくなってしまったのだ。

※私はこの1982年2月の六本木ピットインのStepsライブを観ている。行列して会場に入ると、控室からマイケルの物凄いウォーミングアップが聴こえて度肝を抜かれ、その後ほぼ最前列でマイケルのプレイを浴びて感激したものだ。マイケル、本番中に床に置いてあった水の入ったコップを誤って倒してちょっと困ったりして、なんか可愛かったw 
今回、評伝を読んで分かったのだが、この来日はリハビリ施設からの復帰直後だったのだな。おそらく、以前からブッキングしてあったツアーでキャンセルできなかったのだろう。不安があったのか、来日中、日本でも更生ミーティングを見つけて出ていたらしい。

上記したジャコのバースデーライブも、「マイケル、ミンツァー
ツートップのスーパーバンド!」みたいな見出しでジャズ雑誌のニュースとなっていた。9月にそのワードオブマウスビッグバンドがAurex Jazz Festivalで来日することが決まり「マイケルが聴ける!」と喜んだのだが、蓋を開けてみると、マイケルではなくランディの方がメンバーに入っていたりと、なにやら不穏なことになっており、そんなタイミングで突然リリースされたのが、今回採り上げた"Cityscape"だった。
なぜかアナログ盤がどこかに行ってしまったのだが、私の手元には日本盤のCDがあり、当初アナログ盤リリースの際の日本語のライナーが再掲されている。その中にこんな記載がある。

マイケルは喉に身体的な障害を持っているのである。(中略)
このアルバムを友人のミュージシャンに聴かせたとき、友人がこう言った。
「マイケル・ブレッカーはかなりヤバいのかな。喉が悪いっていうじゃない。なんだかやりたいことを早くやろうっていう感じなんだよね、、、」

シティスケイプ  日本盤 池上比沙之氏による解説(1982年6月記)

マイケルがノドに爆弾を抱えている、いう噂は私も聴いていたのだが、そんな中、この異様に暗いアルバムがリリースされ「これはマイケルブレッカーにとっての ”Expressions(コルトレーンの遺作となったアルバム)" なのではないか?(要は、マイケルこのまま引退しちゃったり、なんなら死んじゃったりするんじゃないか)」などと仲間たちと不安を語りあったものである。直前までのヘロイン中毒を考えると、あながち間違ってもなかったのかもしれないが。

4.3 Cityscape/Clous Ogermanを聴いて

ようやく本題。
まずは答え合わせから。本作、 Cityscape が録音されたのは、1982年1月4-8日、場所はニューヨークのスタジオ。そう、マイケルがマイアミのリハビリ施設から出た直後のことである(施設には12月2日に入って、5週間居たそうなので、なんかちょっと計算が合わないような気もするが)。これは、今回私がこの評伝を読んでの一番の発見、というか驚きだった。
上に書いたように、このアルバムの全体的な暗さは当時のマイケルの心情や不安(喉の病気だったり薬物中毒だったり)から来ている部分も大きいのかと思っていた。と思ったら、よりによってリハビリ施設からクリーンになって出てきたときの録音ということ。まあ、出てきたばかりでまだ不安、とか、そういう心情と演奏は関係ない、とかご意見はいろいろあろうが、まあ、少しドラマチックな展開を期待していた私としてはちょっと拍子抜けというところだろうか。

改めて本作であるが、作編曲家のクラウス・オガーマンとマイケルの両者名義のアルバムである。とはいえ、オガーマンが自作曲を表現するのにマイケルを使った、と考えると、どちらかというとオガーマンのリーダーであるといった方が良いかもしれない。
オガーマンはドイツの人で、もともとクラシックの作曲家を志していたようだが、名を上げたのはアメリカに移ってからのアレンジャーとしての仕事のようだ。ジャズに近い人で言うと、アントニオ・カルロス・ジョビン、スタン・ゲッツ、ビル・エバンスなどにアレンジを提供している。もともと、モダンなクラシック音楽(なんか変な表現)に造詣が深く、ストリングスと木管楽器を使ったゴージャスで美しいなアレンジで知られるとか。オガーマンについては、このNoteが異常に詳しいので、興味のある方はご参照ください。

一曲目の表題作"Cityscape"は、実に不安定なストリングスと木管のロングトーンから始まる。そこに、まさにコルトレーンの"Expressions"を思い起こさせるような音色+フレーズでマイケルが絡んで、その後ゆったりとしたリズムが流れ出し、引き続きマイケルが、書き譜なのか、アドリブなのか判然としない演奏を続ける。二曲目以降も基本的には同じような感じ(手抜き解説)。
まあ、とにかく美しく、都会的でしかも暗い印象のある音楽だ。色彩としては、やっぱり灰色かな。要はアルバムジャケットの印象そのまま。ここまでジャケットと音楽がマッチしているアルバムも珍しいだろう。
聴きどころは、当然マイケルのプレイで、おそらくアドリブであろう部分も含めて、とにかく一音一音丁寧にコントロールしている。長い音は、ストレートに吹き切る場合もあれば、深くゆっくりとした(それこそコルトレーン後期のような)ビブラートをしていることもある。"In the presence and absence of each other part 2"ではずっとオーケストラの映画音楽のような演奏が続くのだが、そこに突然入ってくるマイケルのフラジオの美しさと言ったら!(ちなみに約七分のこの曲のうち、マイケルは最後の50秒ぐらいしか吹いてない)。細かいフレーズも、装飾音を含め細部に至るまでコントロールされて隙がない。まさに、その当時、いや、現代の状況でさえ「マイケルにしかできない」演奏ではないかと思う。
前半三曲で聴かれる明らかなアドリブの部分は、マイケル得意の早いアウトフレーズ、ブルーノート含みのファンキーなフレーズ、フラジオやオルタネイトフィンガリングも含め、いわゆるジャズのガチソロと同じような派手なこともやっているのだが、ディテイルのコントロールが行き届いているので、全体の印象を変えることはない。といいつつ、3曲目の "Night wings" の後半、4ビートになってじわじわと盛り上がっていく箇所とか(ところで、ここでのスティーブ・ガッドのブラシプレイも歴史に残りそうだ、"In the presence and absence of each other part 1"でのクールなマーカス/ガッドのデジタルリズムセクションの上でのソロなどでは、なにやら胸が熱くなる。いやーなんか感動するなあw
とか何とか言いながら、後半2曲はマイケルの出番も少なく、若いころはたいてい途中で寝ちゃっていたww なんかすみません。今回改めて最後まできっちり聴いてみたのだが、不安定なコードだらけのこのアルバムにあって、一番最後の和音が実に平和な、安定したメジャーコードだったのを発見して、ちょっと嬉しくなったりしました。

一番上にも書いたが、このアルバム、改めて特殊だと思う。売れっ子のアレンジャーだったオガーマンが、スタジオ方面ではすでにトッププレイヤーの一人だったとはいえ、まだまだ若手でリーダー作も出していないマイケルの演奏を前提として書いた「特定個人専用協奏曲」であるということ、中身としては決して万人受けする音楽ではないこと(BGMにしては重過ぎるし、一般的なジャズとしては難しすぎる)、その割には妙にパワーと金をかけて、60人のオーケストラ(!)とニューヨークのトッププレイヤーからなるリズム隊を準備したこと、おそらくこのプロジェクトを進めているときのマイケルはまだヘロイン中毒と戦っていたこと、など諸々考えると、実現したのが奇跡にも思えてくる。結果、おそらくオガーマンにとってもマイケルにとっても、自身の代表作となるような、また、他に類を見ないような作品が生まれ、我々もそれを長く聴くことができるという意味で、実に意義深い作品だと思うわけです。
すでに愛聴盤だという人も多いと思うが、そんな人もせっかくなので改めて正座して聴いてみよう。背景を知って聴くと、改めて感動するはずだ。まだ、未聴でこれから聴くという幸せな人は、ぜひ、ちゃんと時間を取ってじっくりと聴いてみてください。寒くなって、ちょっと寂しくなってくるこれからの季節にはぴったりの音楽ですw 以前は、あまりの暗さに、落ち込んでる人は自殺したくなるかもしれない、などと思ったものですが、今回、マイケルがリハビリを終えて薬物中毒から脱出し、新たな人生に向かっていくときに録音した音楽だったというのがわかったので、安心して聴けると思いますww 最後はメジャーコードだし。

4.4 その後のマイケル

さて、上記した通り、日本のファンが不安を抱える中、ツアーなどの活動を控えていたマイケルだが、久しぶりに日本のファンの前に姿を現したのは、1985年の斑尾ジャズフェスティバル、Steps Aheadのメンバーとしてのライブだった。私は就職活動中wwで行けなかったのだが、その時の様子はテレビで放映され(下の映像)、1981-2年に観た細身のマイケルが倍ぐらいに太っていてびっくりしたものだ(当時はわからなかったが、リハビリ後のクリーンな生活で健康的になったということなんだろう。今観てみると、そこまで太っているわけでもないし)。ついでに、謎の電気サックスを吹いているのも衝撃だった。そこら辺の話はまた次回以降。いずれにせよ、日本のファンの心配はこのライブでほぼ解消されたのだった。

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