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『或る集落の●』「べらの社」試し読み①

【一】

庭のすぐ横を流れる小川は、燃えるような空の色を映して、橙色に輝いていた。
稲田へと続くこの水路は大昔に、村に暮らした人々の手によって引かれたものだという。ここから見ると、高く伸びた稲の葉はまるで、光沢のある絨毯のようだ。
そこに織り込まれた模様みたいな、真っ直ぐのあぜ道。田んぼの向こう、なだらかな稜線に突き立つ、送電線の鉄塔。
暮れていく日に染められた集落は、胸を抉(えぐ)るほどに美しかった。

近くに人家はなく閑寂としているが、ねぐらへ帰る烏(からす)たちの鳴く声に混じって、日没を惜しむ蝉の音(ね)がまばらに聞こえていた。昼間に降り注いだ陽射しの熱を冷ますように、木と土の匂いを含んだ風が夏草を揺らす。

手を休め、振り返る。

《べらの社(やしろ)》の建つお山は、黒々とした影となってそこにあった。

「姉(ね)っちゃは、べら様に取らいでまったのさ」

申し訳なさそうに目を伏せて、伯父はそう言った。

大学一年の夏休み。置き捨てられた廃屋の庭で、私は姉のために、花を摘んでいた。

三つ年上の姉が母の生まれ故郷であるP集落に移り住むことになったのは、一昨年。私が東京の美術大学への入学を目指して、盛岡の予備校に通っていた頃のことだ。

姉は前科者だった。

私が高校二年生の時に父が海外赴任することになり、母がつき添う形で、二人は岩手からシンガポールに移り住んだ。
元々あまり子供に関心のなかった両親は、年頃の娘たちを置いていくことに躊躇はなかったらしい。当時短大生だった姉と私は、県内のマンションで二人暮らしをすることになった。

子供の頃、家を空けることの多かった両親に代わって妹である私の面倒を見てくれた姉は、私にとって唯一心を預けられる家族であり、何でも話せる友達のような存在だった。
しっかり者の姉が掃除当番と食事当番を割り振り、料理を教えてくれたおかげで、いつも部屋はきれいに保たれ、美味しいご飯が食べられた。寂しさもなく、両親が出ていっても、何の不都合も感じることはなかった。

だが間もなく、状況に変化が訪れた。姉に、初めての恋人ができたのだ。

女だけで住むのは無用心だと姉は言い張り、男を部屋に連れ込むようになった。
動物好きの優しい人だと紹介されたが、飼い猫のキャリーケースを携えた姉の恋人の腕には亀の刺青が彫られていた。人懐こく笑う歯の欠けたその男はやくざの見習いのようなことをしており、姉とは街に数軒しかないクラブで出会ったのだという。

男が家に出入りするようになって四か月後、早朝にマンションを訪ねてきた地味な色のスーツを着た一団が姉と男を拘束した。彼らは手際よく部屋をひっかき回し、猫のトイレから白い粉の入った小さなビニール袋を見つけ出した。

姉と男は覚醒剤所持の現行犯で逮捕され、その日のうちに尿検査で反応が出たとのことで覚醒剤の使用で再逮捕された。男は再犯だったので実刑となったが、姉は初犯のため二年の執行猶予がついた。

覚醒剤事犯は再犯が多く、家族が協力して更正させなければいけないと裁判所で忠告された。両親はそもそもこの件に関わる気がなく、公判の日すら帰国することはなかった。 

一年後に迫った入試のために予備校の課題をこなすだけで精一杯の私にとって、出所してくる姉の目つけ役として共に暮らすのは、荷が重すぎた。

「姉っちゃ、こっちで預がるごどになったじゃ」

 青森の伯父から電話がきた時には、心から安堵した。

母の兄である伯父は、離れていても私たち家族のことを気にかけてくれる頼もしい存在だった。三人の子供は独立して県外で働いており、祖母が亡くなったのちに集落の家を継いで、夫婦二人で暮らしていた。
母と伯父との間で話はついており、姉は拘置所から真っ直ぐP集落の母の実家に向かうことになった。

集落から岩手の拘置所までは車で三時間ほどの距離だそうで、伯父が迎えにきてくれるという。婦警につき添われ背中を丸めて家を出ていった姉の姿を思い出すたびにいたたまれない気持ちになり、正直を言えば、顔を合わせたくなかった。
いつもそばにいてくれた、尊敬の対象だった姉が、あのようなどうしようもない男とつき合い薬物犯罪に手を染めたことを、私は受け入れられなかった。

姉に会いに行こうと思い立ったのは、伯父からの電話がきっかけだった。姉がP集落の母の実家で暮らすようになってから一年半が経ち、私は念願だった美術大学に入学を果たして、東京で一人暮らしをしていた。

姉を預けてから、伯父の家には毎月、両親が相応の額の仕送りをしていた。振り込みの確認をした際に姉から電話がきて、近況を報告し合うのが慣わしだった。会話はぎこちなかったが、そうして何気ない話をするうちに、徐々に姉との関係が修復できてきたように思っていた。しかしこの二か月ほど電話が途絶えており、こちらからかけても姉は不在だと言われる。どうしたのかと心配していた矢先のことだった。

「姉っちゃさ電話させてくても、べら様さ行ってまって」

姉の代わりに仕送りの礼を述べた伯父は、途方に暮れたような口調でそう切り出した。

P集落には、《べら》と呼ばれる土地神を祀る、小さな社がある。姉は近頃、毎日べらの社にお参りをしていて、家にいないのだという。伯父は「心配してらべ。すまねごとしたの」と沈んだ声で謝罪の言葉を重ねる。告げられて、私は困惑するしかなかった。ああいうことがあって、色々考えるところがあるのかもしれないが、私が知る限り、姉は特に信心深い人ではない。ちょっと普通の状況ではないと感じた。

「私、夏休みにそっちに遊びに行っていいかな。お姉ちゃんとも久し振りに会いたいし」

 伯父に気を遣わせないように、なるべく明るい口調でそう申し出た。伯父は一瞬ためらうように沈黙したあと、「んだな。姉っちゃも喜ぶべ」と了承してくれた。

 東北新幹線はやてと車両が二つしかない在来線を乗り継いで、P集落から一番近いQ駅に降り立ったのは、七月下旬のある日。正午過ぎのことだ。
Q駅には伯父が車で迎えにきてくれていた。五年前の祖母の葬儀以来会っていなかったが、祖母に似た優しげな面差しは変わっていなかった。

駅からP集落までは、車で四十分ほどの道のりである。国道から県道に入り、曲がりくねった山道と、いくつものトンネルを抜けていく。すると山の中に突然現れたといった風情で、青々とした田んぼと昔ながらの百姓家が見えてくる。

十数戸しかないその集落に《べらの社》はある。

いつ建てられたものか定かでない古びた社は、集落の北側に位置するお山の中腹に据えられていて、そこに着くには手入れのされていない杉と猥雑に茂った広葉樹の森の中を、延々と登っていかなくてはならない。

何度も折り返して続く獣道は一本道のはずだが、同じような風景が繰り返されて道を間違えたと錯覚させるのか、地元の人でもよく迷うのだと祖母から聞かされた。

「お姉ちゃん、今日もべら様にいるの」

 伯父の家に到着し、伯母の案内で客間に荷物を置いたあと、仏壇に線香を上げてからそう切り出した。

道中では「新幹線は混んでだが」とか「晩に食いてもんあるが」などとその場を取り繕うように話しかけてきた伯父は、家に着いてから急に口数が少なくなっていた。伯母もどこかよそよそしく、座卓に麦茶を置いて逃げるように居間を出ていった。

伯父は私の問いかけに力なくうなずくと、「どうにもなんねえ」と、吐き出すように言った。

姉が社へお参りをするようになったのは、春の例祭がきっかけだという。

毎年この地域では四月になると、近くの集落同士が持ち回りで合社祭を行うのだが、今年は《べら様》の番だということで、近隣の村の顔役や農協の職員、タウン誌の取材記者など、多くの人がこのP集落に集まった。

集落の婦人部の手伝いでお茶出しをしていた姉は、その時に地元の郷土史家だという男の話を熱心な様子で聞いていたそうだ。

「私、べら様にお参りに行ってみようと思うの」

 祭の翌日、姉は朝からお山にお参りに出かけ、日が暮れてから帰ってきたという。

思いつめた顔をして、すぐ部屋に篭ってしまったそうだ。心配して声をかけても、「あそこにはもう近づかないから」と泣きながら謝るばかりで話ができなかったらしい。

「もう行がねったのに、しばらぐ経ったら黙ってお山さ行ってまって、帰れば泣ぐばっかりだもの。どうすべど思ってらったら、もう毎日行ぐようになってまった」

今ではお山に行く以外はほとんど自室から出てこず、食事は伯母が廊下に置いておくのだという。襖の向こうから時折すすり泣きのような声が聞こえてくるが、話しかけても返事はないのだそうだ。

伯父の話を聞いて思ったのは、姉が誰かから社に行くことを強要されているのではないか、ということだった。

最初こそ望んで行ったものの、それからは本意でなく社に通っているのではないだろうか。しかし私がそういう人物に心当たりがないかと尋ねると、伯父は溜め息をついて首を振った。

「姉っちゃは、べら様に取らいでまったのさ」

そして暗い目でこうつけ加えた。

「こうなったら、離してもらえるまで待づしかねんだ」

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