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『或る集落の●』「べらの社」試し読み⑤

【五】

 夕暮れの田んぼ道を、水路に沿って、庄屋屋敷に向かって歩く。
 ぬるい風が頬を撫でた。
 空高くから聞こえる烏の声と、田んぼに響くころころという蛙の声。
 微かな水の流れる音。乾いた地面に靴底がすれる音以外、何も聞こえなかった。
 
 昼前にヘリコプターが休耕地に降り立った際には多くの人が様子を見に集まっていたが、この時間に外を歩いている人間はおらず、今度も 誰にも会わずに屋敷へたどり着くことができた。
 私は迷いなく屋敷の庭へと入り、軍手をはめた手で、葡萄のような青紫の花を摘んだ。
 
 夏は特に毒が強くなると聞いていた。
 トリカブトはその根も葉も花もすべて毒があり、だからこの庭に立ち入ってはならないのだと、祖母から教えられていた。
 
 家に帰り、夕食と風呂を済ませると客間へ引き上げる。
 湯飲みの中にビニール袋から出した花弁と少量の水を入れ、スプーンの裏側を使って押し潰した。そうして何度も湯飲みにこすりつけるうち、水はきれいな青紫色になった。
 
 深夜、伯父と伯母が寝静まるのを待って庭に出た。
 夜空をくり抜いたような明るい丸い月が浮かんでいる。周囲に灯りはなく、見たこともない数の星が瞬いていた。
 音を立てないよう静かに番号を合わせ、鍵を外した。
 物置の戸を薄く開け、中を窺う。わずかな隙間から差し込む月明かりで、ぼんやりとものの形が浮き上がった。
 
 目が慣れるのをじっと待つ。最初に白いふくらはぎが見えた。
 姉は足を横に投げ出して、布団の上に座っていた。
 こちらに向けた背中が、拍子を取るようにゆっくりと左右に揺れている。
 髪は耳の下で一つに結わえられていて、うなじから肩の肌が白粉を塗ったように青白く光っていた。
 頭の後ろで、手ぬぐいが結ばれている。目隠しをされているようだった。
 そこからさらに視線を上に向けて、私は息を呑んだ。
 
 姉の頭が、膨らんでいた。
 いや、長くなっていたと言うべきか。
 大きさの合わない帽子を被っているような、奇妙な輪郭だった。
 
 戸を引き開け、中に入る。
 姉の動きが止まった。

「――結婚するのよ。私」

 透き通った静かな声で姉が告げる。
 そうして、ゆらりとこちらに顔を向けた。

「だから明日には、ここを出ていくの」

「おめでとう。良かったね」
 祝福の言葉を伝え、笑って見せた。
 姉も口元に穏やかな笑みを浮かべている。頭の奥が、ちりちりと熱くなった。
 
 目隠しされた姉の目の上の、額のところに開いた双眸が、こちらをじっと見据えていた。ぎりぎりとつり上がり、異様な光を湛えたその目も、笑っているように見えた。
 
 姉の、本来なら眉があった辺りから、姉ではない何かの頭が生えていた。

「西瓜、持ってきた」
 
 姉の前に西瓜の載った皿を置く。さっき台所で切ってきたものだ。
「お姉ちゃん、好きでしょ。食べて」
 
 私は安堵していた。
 ここにいるのは、違うものだ。
 だから、いいのだと。

「見えないから、手に持たせてくれる」
 姉の手に、その肉が紫に染まった西瓜を握らせる。
 姉は静かに口に運んだ。
 厚みのある赤い唇が、並んだ小さな白い歯が、齧り取った断片を咀嚼する。

「美味しいよ。ありがとう」
 震える声で姉は言い、鼻を啜った。
 目隠しの布が濡れていた。
 私はそれを見ないようにして、つり上がった二つの目を睨み返す。
 
 面白いものを見るように、そいつはまぶたを引き上げて、きらきらした黒い小さな瞳で私を捉えていた。
 
 胃を掴まれたような苦しさを覚え、顔を背ける。
 息を吸おうとすると、ひっ、と痙攣するような声が出た。
 姉の慟哭と、嘲笑うひび割れた声を後ろに聞きながら、私は逃げた。
 
 翌朝早くに、家の前に黒光りした大きなワゴン車が停まった。
 毛布に包まれた姉が担架に乗せられ、車に運ばれていく。伯父と一緒に担架を持ち上げている男は、以前《めはしぇは》を見せて欲しいと言ってきたあの男だった。

「当代もこのたびのことは大変喜んでおります。こうして家に迎えられるのは、まことに二十年振りのことですので」
 男はそう言って皺だらけの顔を綻ばせる。
 姉の膨張した頭は、毛布の上から黒いベルトで厳重に担架に固定されていた。

「お前んどの母(か)っちゃさも知らせである。姉っちゃは嫁さ行った。立派な家(うぢ)だ。何の心配も要らね」
 土埃を上げて去っていくワゴン車を見つめたまま、伯父は言い聞かせるように静かな声で告げた。
 以来、私は姉の姿を見ていない。

 姉の婚家からは毎年、年賀状が送られてくる。もう今年で四枚目だ。

 送り主の住所は書いていないが、消印は九州のある町の郵便局となっている。いつもワープロ印字なので、姉が書いたものかは分からない。
 去年、子供が生まれたと記されていたが写真はなかった。
 二〇九三グラムの女の子だそうだ。

 私は美大を出て、盛岡市内のマッサージ店で働いている。
 大学三年生の時に網膜の血管が詰まる病気で両目の視力を失い、絵の仕事に就くという夢は断たれたが、まだ死にたいとは思わない。


【了】

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