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愛する味方

「つっぺ」という言葉が北海道弁だということをつい先日、初めて知った。
流し見していたYoutubeで、「道民しか知らない北海道弁15選」的な動画が流れてきて、その中で紹介されていたのである。
北海道の人が「つっぺ」というのは、鼻血が出たとき止血するために、ティッシュを小さい筒状に丸めて、鼻の穴に突き刺したもののことで、他の地域に言葉に直すと、「詰め物」とか「栓」という言葉になってしまうらしく、ちょうど当てはまる単語は見つからなさそうだった。
私は「つっぺ」という言葉を聞くと、祖父のことを思い出す。

「祖父」とは父方のおじいちゃんのことで、京都の北のほう、日本海側に住んでいた。
一般的には、天橋立なんかが有名なエリアだけれど、海沿いだから冬は雪が降るほど寒く、夏は京都らしい照りつける暑さが待っている場所で、子供の頃は、夏休み・冬休みのたびに、地元・北海道から家族そろって祖父母のいる京都まで足を運んでいた。
私はこの祖父のことを「京都のおじいちゃん」と呼んでいるので、この文章でもそう書くことにする。

京都のおじいちゃんは、初めて私を「味方してくれた」人だったと思う。
もちろん両親は、愛情込めて私を育ててくれたけれど、自分の子供だから、危ないことや許せないことに対しては「違う」とか「だめ」とか、両親基準の価値観で、子供のわがままを制止していたように思う。
それに対しておじいちゃんは、120%私の味方で、良い時も悪い時も、限りなく私に加勢してくれた。
シンプルに言えば孫の私を、心底誰よりも、かわいがってくれたのである。

私が覚えているおじいちゃんとの初めての記憶は、京都の家で、親戚ともども人生ゲームをしていた時のことだ。
超がつくほどの負けず嫌いだった私は、非常に堅調に、それまでの戦いを優勢に進めていた。
人生ゲームは普段から家族でも頻繁にしていたので、小学校入学前とはいえ、大体のコツは習得していたのだ。
それなのに、あと2マスで無事、一番乗りでゴールというところで、私と同じくB型&負けず嫌い代表の父親が、素晴らしい抗戦に出た。
トップを走る私に、「ゴッホの絵を20万円で買う」というペナルティを負わせてきたのである。
今考えても、「その年齢の娘にその勝気で挑むのはどうなんだ?」と思うけれど、そういう性格の人だからしょうがない。
なすすべもなく、それまで1位だった私は、見事20万円の借金を抱えたままゴールを迎えてしまい、案の定敗北した。

負けず嫌いの称号だろうか、当時の私は悔しさのあまり、ぎゃんぎゃんに泣いた。
本当に文字通り、ぎゃんぎゃんに泣いた。
母は困って「泣かなくていいじゃない」となだめたけれど、私からすれば、「泣かなきゃやってられないじゃないか」というほどの、父の荒技だった。
そんな私を見て、父は薄ら笑いをしている。
仕方ない、そういう人だ。

そこで出てきたのがおじいちゃん。
おじいちゃんは一言、父に向かって、「自分、何しとん?」と言った。
父は「ええやん、勝負なんやから」と言って譲らない。
「いい大人がこんなことして、恥ずかしくないんか」とおじいちゃん。
ふんっと鼻を立てる父。
父に呆れたおじいちゃんは、泣き喚く私の頭を撫でながら、
「悪いのは〇〇(父の名)やからな、ごめんな」と言ってくれた。
この時私は、「あ、おじいちゃんは味方なんだ」と思った。
それが明確に記憶している、おじいちゃんとの最初の思い出。

私にとって、父は「とても怖い人」だったけれど、父にとってはおじいちゃんが「とってもおっかない人」だったらしい。
そんなおじいちゃんが、孫相手におっかないくらい丸くなっていて、父は不気味だったそう。
それからもずっと、おじいちゃんは私を溺愛&ベタ褒めしてくれて、いつ会いに行っても、何をしても、「颯子(私)は利口やなあ」とか「颯子はええねん」とか、全ての許しと賞賛をくれた。

おじいちゃんとのあらゆる記憶は、全部20年も前のことなので、覚えているようであまり覚えていない。
楽しかった、嬉しかった、という輪郭だけ頭に残って、その時何をしていたか、どんなことを言われたか、具体的な中身は覚えていなかったりするのがほとんどだ。
今となっては、そのことを本当に悔やむ。
忘れてしまうのが常だけれど、どうして大事なことを覚えていないんだろう。

それでも微かに覚えているのは、おじいちゃんの軽トラに乗って、横顔に浴びた夏風のこと。
おじいちゃんはいつも、白い軽トラックに乗っていた。
今はだいぶ町も変わってしまったけれど、当時のその辺りは本当に田舎で、おじいちゃん家の3軒先は日本海だったから、誰もいない海辺の一本道を、おじいちゃんはよく、買い物がてら気ままにドライブしていた。
ある日おじいちゃんが、「乗るか?」と声をかけてくれて、多分本当はだめなんだけど、軽トラの荷台に私を乗せてくれたことがある。
厳しい父のもとでは、到底そんなことできるはずもなかったから、初めての体験に幼い私はワクワクで、勢い込んで荷台に乗り込んだ。
乗り込んだといっても、身長が全然足りないので、おじいちゃんに抱っこしてもらって、「よいしょっ」と乗せてもらったのである。

ほんの15分くらいのドライブだった。
でも、おじいちゃんの軽トラに乗って見る海の風景は、ふだん自分の目線で見ているその景色よりうんと高くて、「ああ、大人たちはこういう世界を見ているんだ」と思った。
そこにあるものは、いつもと何も変わらないのに、新しい風景だった。

運転席のおじいちゃんが窓を開けて、「気持ちいいだろう?」と聞く。
「うん!」とだけ答えたと思う。
歩くよりはやい速さで切り替わる町の映像に、まばたき一つしてはもったいないような気がして、ぐっと瞳を開きながら次々にやってくる新たなシーンに目を凝らしていた。
生ぬるい夏の風が、膨れ上がった私の頬を撫でて、それがとても心地よく、子供ながらに、「これはきっと、大事な経験になるだろうな」と思ったのを覚えている。
当時は、「きっとお父さんに怒られるから、2回目はないだろう」くらいに思っていた。
でも実際には、おじいちゃんがこの世からいなくなって、もうあの軽トラに乗ることはできなかった。

おじいちゃんはあまりに急に亡くなった。
私が小学校に上がる前、5歳前後の出来事。
保育園でお昼寝をしている最中に、先生に肩をトントンとされて、「起きて」と言われた。
眠い目を擦りながら職員室に通され、おじいちゃんが亡くなったことを告げられた。
すぐにお迎えが来るから、準備をするように言われ、あまりよく現実を理解しないまま、お昼寝用の肌着から私服に着替え、家族のお迎えを待った。
家に着くと、父も母も姉も兄も、みんな真っ黒の服を着ている。
当時はまだ、お葬式というものに行ったことがなかったので、何が起きているのか、本当によくわからなかった。
でも、言われるがままに喪服を着せられ、急遽飛行機に乗って、京都まで行くことになった。

そこからは、あまり時系列の記憶が定かではない。
ただ、父が喪主として挨拶をしていたこと、沢山の人がおじいちゃん家の前の田舎道に集まっていたこと、そして棺の中のおじいちゃんの顔だけを覚えている。
棺の中にいるのは、見覚えのあるおじいちゃんの顔なのに、「おじいちゃん、おじいちゃん」と呼びかけても、いつものように笑いかけてはくれない。びくともしない。そこにいない。

物心ついてから、亡くなった人を目の前にするのは恐らく初めてだったから、「ああ、死ぬっていうのは、応えてくれなくなることなんだ」とうっすら思った。
そんな私は、あまりの非現実さに涙も出ないまま、おじいちゃんの鼻に詰め物がされていることに気付く。
隣にいた母に、「おじいちゃん、なんでつっぺをしているの?」と聞いた。
母は泣いていて、私の質問には何も答えず、ただ「もうさよならだからね」と言った。
このシーンだけを、やたらと鮮明に覚えている。

「つっぺ」という言葉でおじいちゃんを思い出したのは、この出来事から。
今思えば、あれだけかわいがってくれたおじいちゃんとの記憶のうち、もっと覚えておくべきだったはずのものは沢山あるのに、あまりにも印象的すぎたのか、最期の場面だけが脳裏に焼きつかれてしまって、おじいちゃんと過ごした多くの時間は、ぼんやりとしか刻まれていない。
それでも、おじいちゃんが私のことを本当に大切にしてくれたこと自体は、エピソードがなくたって、体と心が覚えているような気がする。
「よしよし」と大きな手で頭を撫でてくれたこと、どんな時も、「大丈夫だ」と言ってくれたこと。
そういう断片はちゃんと思い出せる。

おじいちゃんが亡くなった理由を、私はよく知らない。
多分まだ小さかったから、両親が伝えないようにしたのだと思う。
ただ、病気ではなく事故で、急だった。
昨日までそこにいた人が、今日いきなりいなくなるというのは、とても残酷で受け入れ難いことだ。
亡くなった人の気持ちを思い知ることは到底できないけれど、それでもどうしても、「もう少し生きたかったよね」と思ってしまう。
私だって、まだまだおじいちゃんと生きていたかったもの。

「限りがあるからこそ人生は美しい」なんていうけれど、おじいちゃんのことを思い出すたびに、「本当にそうかなあ」と思う。
なんであんなにいい人が、いきなり死ななきゃいけないんだろう。
超自己中な考えだと重々承知で、そう思ってしまうのだ。
別に人生に終わりがなくたって、今が今しかないのは変わらないこと。
それなのにどうして、人生ごと区切りをつけないといけないんだろう。

大好きだった人がこの世からいなくなってしまうのは、残された側をとてつもなく空虚にさせる。
「空虚」という言葉は、この時のためにあったのかと思うくらい、本当に空っぽにさせる。
お互いに助け合っていたつもりが、知らないうちに手を離れてしまって、握りしめていられなかった自分を、責めたくなる。
もう20年も経つのに、おじいちゃんを思い出すと、喉の奥が苦しくなる。
ちゃんとお別れを伝えられないまま逝ってしまったから、余計に悲しく、悔しくなるんだろう。

もう一つだけ、はっきり覚えているおじいちゃんとの思い出がある。
当時おばあちゃんが折り紙に凝っていて、折り紙の折り方を色々と教えてくれていた。
その中に、カエルの折り方があって、なぜだか私はそれにハマり、ひたすらカエルを折りまくっていた。
折り紙が面白いのは、大きい紙で折ると大きなカエルになるし、小さい紙で折ると小さいカエルができること。
大小様々なカエルを折って、それら1つずつににっこりマークだったりむすっと怒った顔だったり、表情を描いて糸で繋ぎ、おばあちゃんと一緒にカエルのネックレスを作った。
その時の写真が残っているのだけど、今見るとなかなかシュールなネックレスである。
そんな自信作をおじいちゃんにプレゼントしたら、おじいちゃんが本当に本当に、喜んでくれた。
宝くじが当たったかな、家のローンを払い終わったかな、そのくらいの嬉しさが顔に溢れて、「ありがとう、すごいなあ」と頭を撫でてくれた。
そういう愛情は、忘れることがない。

もう会えない人に、何かを求めることはできない。
だから、自分が精一杯に生きることしか、できることはない。
胸を張って自慢できるくらい、まだ何も成し遂げてはいないけれど、
「明日も頑張るね」と言えるくらいの自分でありたいと思う。
ただただ、元気に安らかに、いつもそばで見守ってくれていますように。


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