7月20日真夏日
今まで、自分は正しいって思ってる人達、またはそれを疑ったことのない人達に、攻撃され続けてきた。
身近な大人達の行動規範や学校が同じだった同世代の正義。それらを具体的な人達がこん棒のようにして私の感覚を叩く道具にした。幼い頃にいたのは、そうじゃないという人が現れるにはあまりにも狭い世界だった。
だから、自分は正しくないという感覚、つまり自己存在への疑いを持っている。生きるために、安全のために、そう学習して染み付いた。
それは哲学や霊的なものへの解釈に役立って知的好奇心を満たすが、オートマチックな生きづらさも寄越す。
世に言う陰キャ、陽キャも、自分の存在を疑っているかどうかの隔絶の分類だろう。
自分を疑ったことない人は幸せだろうと思うと同時に、彼らにされたことを考えて、そちら側にいなくて良かったと思う。彼らは正しいから暴力だって正しくなる。そんな狂気に生きるより、世の中の不確かさを観察する方が生きている気持ちになる。
正しさを実行した自負に満ちた人の顔を見ると、どのような結論であれ、アンタッチャブルであれとアラートがなる。彼らに近づいて良いことはないと。
正義の側にいることは楽しい。混沌の中に答えを見つけることは苦しい。後者を知っている人と共にありたい。