「中国共産党、その百年」を読んで 中
1921年、陳独秀らが第一回党大会を開催。共産党が結党される。
大会に出席したのは十三人。参加者の内訳は諸説あるが、本書では毛沢東も参加したという立場をとる。
党大会はコミンテルン主導のもと行われた。
コミンテルン、正式名称は共産主義インターナショナル。国際的な共産主義の組織である。
といっても親玉はソ連で、他国の共産党はすべてコミンテルンの支部としてソ連のコントロール下に置かれた。中国では第一回党大会の少し前に、「共産党」を名乗る団体が現れるも、これはコミンテルンとの繋がりがない、いわば「偽物」の共産党である。もっとも、この“偽”共産党は一度新聞に現れたきり姿を消してしまった火花のような存在であるため、取り沙汰されることは少ない。
コミンテルンは第三インターナショナルの別称がある。第三があるということは、第一と第二も存在した。しかし、どちらも長続きしていない。
第三インターナショナルの創設者・レーニンは第二インターナショナルの崩壊理由を結束の緩さだと見た。そのため、コミンテルンでは規律を絶対的なものとし、集権的な組織を作った。鉄の規律は中国共産党にも受け継がれている。
コミンテルンは中国共産党を設立するにあたり、何人かの共産主義者に声をかけた。陳独秀、李大釗(り だいしょう)、毛沢東ら13人である。これにコミンテルンが派遣したマーリンとニコリスキーが加わり、第一回党大会は行われた。
マーリンは陳独秀らに、国民党と手を組むよう指示する。両者は互いを嫌っていたが、ソ連の意向は無視できなかった。
共産党と違い、国民党は最初から孫文の政党だった。
孫文は清朝末期の革命家だ。清朝が滅んだのち、中華民国臨時大統領に選ばれるも、袁世凱に位を譲る。
袁世凱死後、第一次世界大戦への参加をめぐって中華民国政府は分裂する。ときの大統領は参戦を決定したが、孫文らはこれに反対。北京を出て国民党を結成。華南を根拠地とする。
第一次世界大戦中、ロシアで革命が起こる。レーニン率いる共産党がソ連を結成。孫文はレーニンに接近し、コミンテルン代表のボロディンを国民党最高顧問に迎える。
国民党と共産党、両方と繋がりを持ったコミンテルン主導のもと、国共合作が成る。しかし、犬猿の仲である両者を長く結びつけることは不可能だった。
孫文死後、蒋介石が国民党のリーダーとなる。蔣は共産党員を拘束し、共産党からの反感を招く。
蒋介石は北京政府を倒して国民党が正当な政府となる。共産党とは完全に袂を別ち、内戦がはじまった。
このとき、国民党には三種類の敵がいた。共産党、地方軍閥、そして日本軍である。共産党については散々書いたので、後二つについて軽く説明する。
日本軍
ひいおじいちゃんたち。なんかいろいろあって中国を侵略してた。強い。
軍閥
各地に存在した非合法組織。ピンキリだがどれも日本軍ほどは強くない。有名どころだと張作霖の率いた奉天派。
張作霖はもと馬賊で、アヘンの密売などで儲けていた。清の軍隊も吸収して軍閥となる。日本との繋がりが強かったが爆殺され、息子の張学良は日本を激しく恨む。
複数の敵を持つことになった蒋介石はまず国内の平定を優先すると決める。
国民党軍は共産党の本拠地である瑞金を包囲。共産党軍は瑞金を脱出し、長征がはじまる。
長征は二年間に渡る逃避行だ。最終的には延安に落ち着くものの、当初は目的地もない敗走であった。
長征の間、共産党はコミンテルンから距離を置くことになる。ソ連と繋がる通信機は大型で、持ち運ぶことができなかったからだ。
共産党は独立性を強め、共産党の内部では毛沢東が権力を掌握する。
毛沢東は延安に落ち着くと、権力をより強固なものとするため整風を行った。これは反対者の粛清、拷問、大規模な洗脳によって恐怖支配を確立するものだった。
一方、蒋介石は延安を攻撃するどころではなかった。抗日よりも内乱平定を優先したことで批判が殺到。張学良に拉致され、共産党と協力して抗日戦争を行うと約束させられる。
共産党が積極的に合作を持ちかけたこともあり、第二次国共合作が実現。両党は協力して抗日することが決まる。
日本がアメリカに宣戦布告したことで、中華民国は連合軍に加わる。
連合軍はビルマ方面から国民党に支援物資を送る。日本はこの援蒋ルートを遮断するため、インド方向に向けて侵攻。国民党軍はこれを撃破するため南下した。
国民党軍が南下した隙に共産党は北部で勢力を拡大。終戦時には国民党と伍する勢力を持つに到る。
日中戦争が終わると、両党の全面戦争がはじまる。
はじめは国民党が優勢だったが、ソ連が南下してきたことで逆転。国民党は敗れ、台湾へ逃れた。
毛沢東は天安門広場にて、中華人民共和国成立を宣言する。
建国の翌年、朝鮮戦争がはじまる。北朝鮮は中国とソ連を、韓国は連合軍を味方にする。
中国は北朝鮮に援軍を送る。大量の死傷者を出したが、見返りはあった。ソ連からの軍事支援である。
建国当初、中国にはろくな兵器工場がなかった。しかし朝鮮戦争を口実にソ連の協力のもと、工場建設プロジェクトを立ち上げる。多くの技術と工場を手に入れ、のちには核実験も成功させる。
毛沢東はさらなる力を望んでいた。農作物と鉄鋼製品の増産のため、大躍進政策を実行。しかし多数の餓死者を出した末に失敗。
文革で組織を刷新し、再起をはかるも、いたずらに混乱を招いただけに終わる。それでもGDPは平均すれば年4%の成長を続けた。
外交ではアメリカ、日本との国交を回復。しかし衰弱と病魔により、肉体の活力を失っていく。
独裁者が力を失うと、反対者たちが頭をもたげてくる。
周恩来は毛沢東の側近だ。党の黎明期から活躍し、建国後は外交官として代えがたい人材になっていた。
毛沢東は自分以外の人間が権力を持つことを嫌ったが、周恩来は別だった。忠誠心もさることながら、これほど有能な外交官は他にいなかったからである。
日米と国交を回復した1972年、周の体に膀胱癌が見つかる。
共産党幹部は医療行為すら、毛の許可なくしては行えない。周を診察した医者には毛からの命令が届いた。検査の結果は極秘とし、周本人にも伝えないこと。そして、治療は行わないこと。
周はぼろぼろになりながらも毛の命令を果たし続けた。
二年後、周に転機が訪れる。一つは毛沢東が病気にかかり、しかもかなり重症らしいと知ったのだ。もう一つは鄧小平からの誘いだった。
このとき、毛沢東の最も有能な部下は周恩来と鄧小平だった。鄧小平はかつて毛に反対し、文革で失脚したが、また上り詰めてきたのだ。
鄧は周恩来、葉剣英の二人と手を組む。葉剣英は軍の重鎮である。周・鄧・葉同盟は四人組の二人を弾劾。毛沢東の妻である江青と、コブラのあだ名を持つ張春橋だ。
四人組とは文革を指導した四人の政治家である。メンバーは江青、張春橋、姚文元、王洪文。四人とも政治的能力がなく、毛沢東から権力を簒奪する心配がないことで共通している。
毛沢東は弾劾を跳ね除ける。しかしこのときから、周・鄧・葉を代表とする古参幹部らと、毛+四人組が対立するようになる。
毛は追い詰められたが、周恩来が病没すると、毛沢東は反撃を開始する。鄧小平を監禁し、周恩来の後継者に忠実な部下である華国鋒を任命。軍の統率者も新たに任命し、葉剣英を解任した。
周の死を悼んだ民衆は天安門広場に集まって文革非難を行った。毛沢東はこれを軍事制圧。
毛沢東は鄧小平を恐れたが、処刑はできなかった。それは鄧小平が軍に支持者を多く持っていたからだ。葉剣英も実質的には軍を握っており、鄧小平を守っていた。
周恩来の死から八ヶ月後、毛沢東もまた死の床につく。華国鋒が党主席となるも、鄧小平を抑えることはできなかった。