楚辞
春秋戦国時代の大国、楚の国で編まれた詩集
著者とされているのは屈原。楚の懐王に仕え、改革を主導するも恨みを買った貴族たちの讒言により失脚。追放され、やりきれない思いを抱いたまま川に身を投げて死んだとされる人物だ。
実際には歴史の中で幾人もの人たちの手により書かれた作品が一つにまとめられたもの。
しかし、屈原という人格に仮託されたことは偶然ではない。
作中に次のような言葉がある。
いつとして我、まさに及ばざらんとするがごとくし
年歳のわれにくみせざるを恐る
(滔々と流れゆく時間に置いてけぼりにされ、時間が自分に味方してくれないことを恐れる)
既にわれ かの別離をかたしとせざるに
霊修のしばしば化するを痛む
(私は主君と離れることを恨むのではない、主君がたびたび心変わりされることに胸を痛ませるのだ)
既にともに美政を為すに足るなし
われまさに彭咸の居るところに従わんとす
(ともに政治を志す人間がいないならば、伝説上の聖人である彭咸のいる天上世界へ赴くほかない)
過ぎ行く時間に対する恐怖、讒言を信じた主君への想い、自身の理想を追い求めて周囲に合わせることのできない不器用さ。
これら三つの要素が、楚辞全体を貫いている。
これらの感情が屈原に投影されたのだろう。
楚辞は全17巻。
1、離騒
宮廷を追われた主人公は地上を離れ、女神たちを遍歴し、それにすら理想を見いだせず第二の旅に出発する。
2、九歌
古代の歌謡集。祭儀の場での演劇で使われたもの。
3、天問
天に問う、という形式で神話、歴史を物語る。
4、九章
詩集。
5、遠遊
永遠の命を求め、仙界を旅する。
6、卜居
7、漁父
8、九辨
9、招魂
死んだ屈原の魂を呼ぶための儀式で詠まれた歌。
10、大招
11、惜誓
12、招隠士
13、七諌
14、哀時命
15、九懐
16、九歎
17、九思
特に重要なのは離騒と天問。天問では背景となる神話・歴史の知識が語られている。
離騒の内容は以下。
主人公の名は正則、あざなは霊均。楚王に仕えるも、讒言によって失脚。宮廷を追放される。
霊均は古の賢者に思いを馳せ、現代の人々の生き方を嘆く。
時流に乗る人々の生き方のなんと巧みなことだろう、規律も規範も都合のいいように捻じ曲げる。節操がなく、利益ばかり求め、抜け道を探すことに汲々としている。
自分はそのように生きることはできない。それゆえに追放された。
僻地で時間だけが過ぎていく。王に呼び戻される望みもない。焦燥にかられ、理想を実現できる場所を求め、天上世界へと旅立つ。
しかし天の門は閉じられ、地上へ降りざるを得ない。時空を超越し、過去の時代の女神たちを訪問するも、結ばれることはない。
地上世界への未練を捨て、理想の聖人である彭咸のもとへ向かうため、第二の旅に出る。
霊均は地上世界を離れるも、天上世界ですら仲間は得られず、理想を抱いたまま孤独に放浪。最後は彭咸のもとへと旅立つ。
屈原は身投げしたとされるが、どちらも現世に見切りをつけたことは同じだ。
現実に居場所のない者たちの悲哀が、楚辞文芸を生み出す土壌となった。
中原世界における悪役、鯀は楚辞の中で同情的に描かれているが、それもまっすぐに生きたがゆえに居場所をなくした者への理解から来るのだろう。
中原と世界観を同じくしながらも独特の価値観で語られるのが楚辞の魅力だ。
詩経と並ぶ中国古典の名作。切々と語られる屈原の声を聞いて欲しい。