史記4 春秋戦国時代
紀元前685年から465年までの二百年間に、五人の覇者が現れては消えていった。
春秋五覇。斉の桓公、晋の文公、楚の荘王、呉王闔閭、越王句践の五人である。
五覇のうち、前の二人は中原だが、あとの三人は中原の外の世界である。黄河文明は長江流域の文明と融合し、中国は広がった。
荘王の時代からしばし後、楚では重鎮の伍奢が失脚した。王は伍奢の処刑を命じる。伍奢の息子二人も出頭を命じられたが、弟の伍子胥は逃げ出すことに成功。呉へ逃れ、軍事顧問となる。このとき、呉には孫子の兵法で知られる孫武もいた。
伍子胥と孫武は後進国だった呉の軍隊を鍛え上げる。戦果をあげ、楚の首都へ攻め込んだ。さらに闔閭の息子、夫差は隣国・越の首都を陥落させる。しかし越王句践の命は助けた。このことで、呉は滅ぶこととなる。
越王句践は復讐のため、軍備を増強して呉を攻める。このときから呉は衰退し、紀元前473年に滅びた。
呉の滅亡から20年、大国の晋が三つに分裂。
晋には六つの有力家系があった。そのうち智伯がもっとも強かったが、魏・韓・趙の三家連合に敗れる。三家は智伯の領土を分割。晋国内でも実質的に三つの独立国が並び立つ状況となる。
紀元前403年、周王室は魏・韓・趙を諸侯と認めた。ここに戦国時代がはじまる。
春秋と戦国の違いは三つある。
1,諸侯の呼び名。
春秋時代、諸侯は公を自称していた。楚、呉、越は王号を用いていたが、彼らは中原の外の国なので、独自の価値観を持っていた。
戦国時代になると、中原の国々も周をはばかることなく王を自称するようになる。
2,戦争のあり方
春秋時代の戦争にはまだ牧歌的な色合いが残っている。義理人情を重んじ、戦場でも恩のある相手が敵だとそれに報いるため、あえて不利をのむこともあった。
しかし、戦国時代は違う。滅ぼすか滅ぼされるかの戦いであり、仁義は存在しない。
3,家柄重視から実力重視へ
周は奴隷社会だ。ゆえに社会の階級は固定されていた。貴族は貴族の家に生まれたから尊い。
戦国は実力主義の時代だ。奴隷出身でも、才能さえあれば位人臣を極めることもできた。
孔子をはじめとする儒家は実力主義の風潮に反対。彼らは身分を固定し、礼儀を守ることを重んじた。周を理想像とする彼ららしい主張だろう。
儒家がどれだけ過去を望もうと、時代の変化には抗えなかった。
斉には各国から学者が集ったが、その頂点は奴隷出身の淳于髠だった。商人が妾に産ませた子が一国の主となり、ついには分裂した天下を統一した。