小説「冬の桜」 ②
あれから三日が経ち、私は念願の個室に移ることができた。
術後の経過は良好だが、もともと呼吸をするための筋肉が弱いらしく、それを鍛える訓練を取り入れながらリハビリに励むこととなった。
近い距離なら、歩行器に頼りながら歩くことができるようにはなったのだが、今まで当たり前だった「ただ歩く」という行為一つで、驚くほどの体力を奪われる。
バス・トイレ付の個室だったから、自分でトイレに歩いて行くのだが、ほんの数メートル先のトイレにたどり着き、便座に腰を下ろすともう息が切れていて、肩で呼吸をしなければならないのだ。
ほんの数日で、人はこんなにも衰えてしまうものなのか。
残酷な現実に、思わずゾッとした。
翌日、看護師に付き添ってもらい、気分転換も兼ねて院内の売店へと向かうことにした。リハビリ用の器具を購入しなければならなかったのだ。
車椅子の使用を進められたが、それを断固として拒否し、ゆっくりと病棟のエレベーターまで向かう。その段階で、すでに息は切れかかっていた。
あんなに、息が上がらないように気を付けながらゆっくり歩いたのに。
売店のある二階でエレベーターを降りると、看板がはるか先に見える。自分で言い出したこととは言え、あそこまで歩くのは無理だと悟った。
「川島さん、ごめんなさい。やっぱり、無理みたい・・・。」
「いいんですよ! 前向きなのはいいことですから! じゃあ、そこで座って待っていて下さい。車椅子、取ってきますね!」
私はそう言って、長椅子で待っていることにした。
付き添ってくれている看護師の川島さんは、まだ20代前半だろうか、いつも溌剌としていて、眩しいほどに明るい。
個室に移ってからはほぼ専属で看護に当たってくれている。
よく気が利くし、仕事も丁寧だった。もしも自分に息子がいたなら、こういうお嫁さんに来て欲しいと、願うような女性だった。
売店は小さくて、品数も少ない。
猫の額ほどの本棚に読みたいような本はなく、コーヒーを買おうとしたら止められた。
「コーヒーは、少し我慢ですね。一日の水分量制限もありますし、カフェインはお薬とあんまり相性が良くないですから。」
そうだった。水分の取り過ぎは、心臓に負担を掛けるのだと言う。私の場合は、一日で500mlまでしか、水分摂取が許されていない。これも、辛いことだった。
結局、出来損ないのオカリナのようなリハビリ器具を、驚くような値段で買っただけで病室に戻ることになり、かえって陰鬱な気分になってしまった。
午後からは検査だった。
私の心臓は半分ほどしか機能を発揮しておらず、いわゆる「慢性心不全」の状態にあるのだと言う。
心電図からも心房細動が頻繁に起こっている様子がわかり、これを手術して治療すれば、少なくても今よりは心臓の機能を取り戻せるらしい。
「永山さんは、まだお若いから手術にも耐えられるだろうし、活動的な日常を取り戻すためにも、前向きに考えてみて下さい。」
大学病院から来たと言う医師はそう言っていた。
「お若い」と言うのがどうにも気になったが、私も手術については前向きに考えるつもりでいたから、すぐに術前検査に同意した。
今日は口から食道を通じて、「内側から超音波を当てて」心臓を検査すると言う。より心臓に近いので、正確なデータが得られるというわけだ。
検査室の前まで来ると、レントゲン検査室の前の長椅子に早田さんを見つけた。
「あら、早田さん・・・。先日は、お世話になりました。」
車椅子の上で頭を下げると、早田さんが立ち上がって挨拶を返してよこした。
「いえいえ・・・。その後、お加減は?」
「おかげさまで、どうにかこうにか・・・。早田さんは・・・?」
「はは・・・私も、病院の常連なんですよ。」
「まあ・・・。お元気そうなのに・・・。」
「ええ、元気なんですけどねぇ・・・。検査すると、数字が悪くて。」
早田さんはそう言って、はにかんだように笑った。
真っ白な白髪と口髭を蓄えていて、はっきりとした年齢はわからなかったが、恐らく私よりいくつか上だろう。
だが、すっきりとしていて背も高いし、立ち居振る舞いもしゃきっとしている。それに、着ている物も年寄染みておらず、清潔感があった。
「若い頃は役者でした」
なんて言われても、信じてしまいそうな雰囲気だった。清潔感があるのは、奥様の賜物なのだろう。
「永山さん、そろそろ・・・。」
川島さんに促されて、軽く会釈をして早田さんの脇を通り過ぎた。
本当のことを言うと、もう少し話していたかった。
今までは何かの形で常に誰かと話していたのに、今ではほとんど川島さんとしか話をしていない。誰とも話さないよりはいいが、やはり年齢差もあるのか、価値観や話題が合わなくて、「会話」と言うにはほど遠いのだ。
30分ほどして、私は検査を終えて検査室前の廊下に早田さんを探したが、淡い期待は儚く潰えた。
少ししょんぼりしてエレベーターを待っていると、後ろから声を掛けられた。
「やあ、またお会いしましたね。」
振り向くと、ジャケットを右手に掛け、書類の入ったクリアファイルを手にした早田さんがいた。
「永山さんは終わりですか? 私はもう一か所。次は二階ですよ。」
そして、またあの照れたような笑顔を浮かべた。
「あら、そうなんですか? ・・・私は終わったんですが、もう少しお話したいと思ってたんです。ご一緒したら、迷惑かしら?」
無意識にそう言ってしまってから、顔から火が出るほどに恥ずかしくなった。不躾にも程がある。こんな提案は、迷惑でしかないだろう。
だが、後悔したところで始まらない。今は、せめて早田さんがうまく断ってくれるのを祈っていた。できれば、なるべく傷つかないような言葉を選んで欲しかった。
だが、答えは意外なものだった。
「いやぁ、それはありがたいなぁ。私も永山さんと同じことを考えていたんですよ。それで不躾にも、また声を掛けさせていただいたような次第でして・・・。」
キョトンとした顔をしていたに違いない。
私は逆に返答に窮してしまった。
「・・・どうでしょう? 看護師さん? 病室には、私がお送りしますから小一時間ほど・・・。」
「え・・・あぁ、はい、大丈夫ですけど・・・病院からは出ないで下さいね?」
「ええ、もちろんです。」
早田さんと川島さんの間で、話が決まってしまった。
自分で望んだことだったが、なんだか悪いことをしているような気になってきた。
「じゃあ、永山さん。4時半には検温ありますから、それまでには戻っていて下さいね。何かあったら、すぐに近くの看護師に伝えて下さい。」
そう言い残して、川島さんは階段へと向かって行った。
その時、チャイムの音がしてエレベーターのドアが開いた。
車椅子が、ものすごくスムーズに前に進んだ。
エレベーターに乗り込む時の段差も、ほとんど感じないほどに。早田さんは手慣れた調子で180度車椅子の向きを変え、二人でエレベーターに乗り込んだ。
「あの・・・ごめんなさい。勝手なことを言ってしまって・・・。」
「いやいや、私の方こそ。ほんとに、ご迷惑ではなかったですか?」
「はい! それは、もちろん・・・。」
それから、ほんの30分ほどの間だったが、私は久しぶりに「人」との会話を楽しんだ。
上司と部下でもなく、患者と看護師でもない、「人同士」の会話だった。
早田さんが検査のために呼ばれると、時間がもったいないという気持ちにさせられた。
結局、会計が終わるまで、二人は場所を変えながら話を続けた。
どうということはない、身体の調子、天気の話、入れなかった温泉の話など、ただの世間話に終始したが、その、いわゆる「無駄話」がとても楽しかった。
「おや、もう時間のようですね。看護師さんに叱られてもつまらないから、そろそろ戻りましょう。」
「あら、ほんと。楽しい時間はあっという間と言うのは、本当ね。」
病棟は家族以外、女性しか入れないので、手前のナースステーションでしばしのお別れとなったが、二日後に検査結果を聞きに来院した時には、またこうしてお話をすることになっていた。
「じゃあ、今日はこれで。」
「はい、早田さんも、お気をを付けて。」
「ありがとう。それじゃあ!」
早田さんはエレベーターの扉が閉まるまで、左手を軽く挙げ続けていた。
他の人だったら、恐ろしく気障りな印象を持ったに違いない。だが、早田さんがすると、どうにもそんな風には見えなかった。
『よほどに品がいいのか、天性の女たらしか、ね。』
そんなことを考えて、思わずククッと笑ってしまった。
70歳を目前に、初めて女たらしに近付かれるとは、何とも皮肉な話だった。それも、病院で、なんて。
「永山さん、お帰りなさい! お話、楽しかったんですね? 永山さんの笑顔、初めて見ました! お話して、息切れしませんでしたか?」
迎えに来た川島さんに言われて気が付いたが、そういえば、早田さんと過ごしていた時間、あれだけ話をして、以前のように笑ったりもしたのに、一度も息切れをしなかったことに気が付いた。
息苦しささえ、覚えなかった。
「冬の桜」 ②
了。