小説「ぐくり」③
翌日も、朝からジメッとしていて、蒸し暑い日になりそうな気配があった。7時には目覚めて洗面を済ませた川口と近藤は、社屋近くの蕎麦屋で朝食代わりに蕎麦をすすり、8時にはそれぞれの部署へと分かれて出勤をした。
本当は朝一番に山下に昨日の経緯を説明して、正式な取材の許可を取ろうと考えていたのだが、山下が出勤早々、川口をあげつらって皮肉たっぷりの笑い話に興じたのに嫌気がさし、当てもないのに記者室を飛び出して来てしまった。
頭に来て思わず飛び出してしまってから、近藤の顔が脳裏に浮かび、『しまった』と思ったが、今更手ぶらで戻るわけにもいかない。こうなったら、今夜の『直当たり』で成果を出して、明日の報告に懸けるしかない。
『しかし、これから8時まで、どう時間を潰したものか・・・。』
当てもなくブラブラと銀座方面に足を向け、ブラジル珈琲店で時間を潰していると、向こうから志津子が歩いてくるのが見えた。珍しく洋装で、髪を下ろしている姿を見ると、とてもこれが40を超えた女には見えない。手に風呂敷包を下げているから、今日はどこかに使いにでも行くのだろうか。
川口は珈琲も飲み飽きたし、こうなったら志津子と天金にでも行って、早めの昼食と洒落込むのも悪くない、と考え、店を後にした。
「やあ、志津子さん。どこかに、お使いかい?」
「あら! コウさんじゃないの! こんなところで、どうしたの?」
川口は、志津子と並んで歩きながら、昨夜から今朝の顛末を語って聞かせた。
「そんなことがあったの・・・それで、銀座で時間を潰してた、ってわけね?」
「そうなんだ。そんなところに志津子さんを見かけたものだから、お礼も兼ねて天金にでも行こうかと考えてね。・・・で、どうだい?」
「そうねぇ・・・。」
志津子は、店で客に出すための洋菓子をぷらんたんに買いに行った帰りだと言う。そんなことは店の若い子にでも頼めばいいものを、今夜来そうな客に合わせて洋菓子を仕入れるから、任せられないのだ、と笑って言った。
「どうせ夜まで暇なら、ウチへ来たら? シャツも昨日のままじゃない。今から洗濯すれば、夜には間に合うし・・・。それにちょっと、臭うわよ。」
「え! そうかい? 一日風呂に入らなかっただけなんだがなぁ。」
「これだけ暑くちゃ、仕方もないわよ。それに、だいぶ飲んだんでしょ?」
「うん、まあ・・・。じゃあ、お言葉に甘えようかな・・・。」
「そうしなさいな! 私だってヨレヨレで臭い人をお客様に紹介するわけにはいきませんからね。」
京橋を渡り、新富町に入った辺りに、志津子の家があった。元は官僚が住んでいたと言う明治に流行った洋風の造りで、赤瓦が乗った二階建ての建物だった。入り口の門を潜ると、ちょっとした雑木林があり、その向こうに玄関がある。
「いやはや、さすがに豪勢だねぇ・・・。言われるままに着いてきたはいいけど、御主人に叱られてしまうんじゃ申し訳ないな・・・。」
「お気遣いはありがたいけど、これでも私、独身なのよ?」
「えっ! そうだったのかい? いや、これは失敬! そういえば、僕はママの時の志津子さんしか知らないものなぁ。」
「それはお互い様でしょ。私だって、コウさんのことを詳しく知っているわけじゃないもの。」
「まあ、それもそうか。」
玄関から中に入ると、家の中も豪華な造りで、艶のある木材が敷き詰められた床が、奥の方まで続いている。ドアが開け放されており、右手に小ぎれいな食堂が見え、左には応接セットの置かれた居間が見えた。中央の階段は曲線を描いて二階の廊下に続き、そこにもドアが3つ見える。
「さ、とりあえず、居間でお待ちになっていて。」
そういうと、志津子は食堂の方に消えていき、川口は今のソファに座ってしばし待つことになった。正面のガラス戸の向こうには芝生の敷かれたこぢんまりとした庭が広がっていた。手入れが行き届いており、塀際に植え込まれた植木がちょうどよい目隠しになっていた。サイドボードには見たこともない酒瓶と、様々な形のグラス、それに、志津子の趣味なのか、フランス人形が何体も並べられていた。さすがは銀座でも屈指のカフェーのママだけあって、生活ぶりは優雅そのもののようだった。
しばらくすると、水色のワンピースに着替え、髪を一束結びにした志津子が、麦茶をお盆に乗せてやってきた。スカートの丈が短く、肩まで露わになったワンピースは、志津子の体のラインをくっきりと浮かび上がらせ、テーブルに麦茶を置いた時に襟ぐりから見えた胸の谷間に、川口は勃然となり、目のやり場に困ってしまった。
「さ、洋服を脱いで。シャツを洗って乾かす間に、背広にアイロンを掛けてしまうわ。」
「え? 志津子さんが洗うのかい?」
川口はてっきり、女中かお手伝いに洗わせるものとばかり思い込んでいたが、そうではないようだった。
「当たり前でしょ。他に、誰が洗うって言うのよ。」
「いや・・・僕は、てっきり女中さんか誰かが・・・。」
「いやぁねぇ。そんなもの、ここにはいないわよ。まだ自分のことは自分でできますからね。さ、早くしないと乾かなくなってしまうわよ。」
「いやいやいや! さすがにそこまでお願いするわけにはいかないよ! 僕が自分で洗うから、洗い場を教えてくれよ!」
「いいから、洗濯している間に、コウさんは風呂場で汗を流してらっしゃいな。髭はあとで私が当たってあげるから。さ、早く早く!」
急き立てられるようにしてシャツを脱がされ、志津子はそれを手に居間を後にした。その手際の良さに、川口は思わず感心してしまった。ズボンも剝ぎ取られそうになったが、これは風呂場で脱ぐ、と頑として抵抗し、風呂場を尋ねてそそくさとそこに向かう。まさかに今の状態を志津子に知られるわけにはいかない。
ところどころに西洋風の天使が描かれた、タイル張りの大きな風呂場は、綺麗に掃除がなされ、カビ一つ浮いていない。大人四人が楽々入れそうな浴槽には、たっぷりと水が張ってあった。川口はその水を何杯も頭から浴び、気持ちを落ち着かせた。
置かれていた石鹸で頭から体まで丹念に擦り、垢と埃を落として、また水をかぶる。ようやく気持ちも落ち着いて来ると、風呂場を後にする。いつの間にか脱衣篭から脱いだズボンと下着が消えており、代わりにバスタオルと浴衣が置いてあった。当然のように下着はなく、川口はいよいよまずいことになったと、鏡の中の自分に告げた。
浴衣は男性の物で、着古された感じはしたが、清潔に洗い上げてあり、大きさも川口に合わせたようにピッタリだった。タオルを首に巻き、髪の毛を拭きながら居間に戻ると、ちょうど志津子が物干しに川口の下着とシャツを干しているところだった。その動きを見ていても、やはり志津子が40を越えているようには思えない。
川口はそのまま置かれていた麦茶を一気に飲み干して、タバコに火を着けた。紫の煙が居間に広がる中、川口はこの後をどう乗り切るか、思案に耽って俯いた。
「良かった! 父の浴衣がピッタリね!」
志津子が手にタオルと髭剃り用のクリームケースを手にして、居間に現れた。
「さ、今度は髭を当たるから、ソファに寄りかかってくれる?」
言われるままにソファに寄りかかった川口の後ろに立った志津子が、熱い蒸しタオルを川口の顔に乗せると、泡立て音も警戒に、クリームを作り始めた。川口は瞑目し、このまま流れに身を任せるしかない、と観念した。
やがてタオルが取り除かれ、クリームの付いたシェービングブラシが顔に当たられた。その、こそばゆい感触と、その動きに合わせるように揺れ動く志津子の胸の膨らみに、川口はまた勃然としてきた。まさかにも浴衣の合わせから川口自身が飛び出さぬよう、太ももでしっかりと押さえ込んではいたが、その重苦しい痛みがあらたな刺激となって、川口を苦しめた。
あごの下にカミソリが当てられ、衣擦れのような音と共に髭が剃り上げられた。志津子は巧みに手を動かし、そのたびに音が弱まって、滑らかにカミソリが動くようになる。上を向かされ、右を向かされしているたびに、目の前を志津子の胸が通り過ぎていく。
最後にきれいに顔からクリームを拭きとると、志津子が川口の隣に腰を下ろし、剃り残しがないか顔を近付けて覗き込んできた。そこに至り、川口はとうとう制御が効かなくなってしまい、志津子をソファに押し倒した。
「あら! ちょっと!」
志津子が短い叫びを上げたが、それは拒否の悲鳴ではなく、ただ単に突然のことに驚いただけのことだったようだ。川口が荒々しく志津子の首元に吸い付くと、それはやがて喜悦の声に変わり始め、志津子の両腕は、川口の背中にしっかりと巻きつけられた。
陽射しの降り注ぐ明るい居間のソファの上で、二人は転げ回るようにしてお互いを求め合い、それは二階の寝室に場所を移して、繰り返し行われた。やがてお互い何度目かの絶頂感に身体を震わせると、ようやく二人は荒い呼吸を整えながら、広いベッドに仰向けに転がった。
気だるげに起き上がった志津子が、シーツで体を隠すようにしてタバコに火を着け、吸いさして川口の口に咥えさせた。
「・・・ありがとう・・・。」
そう言って、川口は志津子の広やかな背中を眺めていた。志津子も自分の細巻きのタバコに火を着けると、シーツで前を隠しながらベッドボードに寄りかかるようにして座った。
「・・・別に・・・気にしなくていいのよ? 私も薄々、望んでいたフシもあるし。」
「あ・・・ああ、すまない・・・違うことを考えていたよ・・・。」
「あら? ・・・そうなの? 何か気にして黙り込んだのかと思ったわ。」
「うん。・・・なんと言うか・・・感動したよ・・・。」
「感動? まさか! 坊やでもあるまいし!」
そう言うと、志津子は顎を上げて嗤った。
「いや、もちろん、素晴らしい肉体だったよ? 僕も言われる通り、坊やという訳じゃあないしね、それっくらいはわかる。・・・だけど、それ以上に、ママの・・・志津子の心意気に、深く心を打たれたんだ・・・。嬉しかったんだよ・・・。」
「・・・。」
「僕を、激励してくれたんだろ? ゲン担ぎのうちでも、『最高級』だものなぁ。まさか、それを志津子が与えてくれるなんて、夢にも思ってなかったよ・・・。」
「・・・もちろん、それだけじゃないのよ? 昨日、久しぶりにお店に来てくれて、隣で話をしたじゃない? あの時の、コウさんの体臭と、首に吹きかかる吐息にさ、年甲斐もなく男をカンジちゃったのよ。」
「はは・・・世辞でも、悪い気はしないなぁ。僕にもまだ、そんな魅力が残っていたんだねぇ・・・。志津子でそれなら、他の若い子たちは、堪らなかったろうねぇ?」
「残念でした! 若い子たちには、ああいう男の哀愁のようなものは、感じ取れないと思うわ。・・・ダメ男くらいにしか、映ってないわよ。それに、私だって、魅力を感じたと言うよりは、母性をくすぐられた、という方が近いんですからね!」
「おいおい! ずいぶんな言い様じゃないか!」
二人は声を上げて笑い合い、川口はまたゴロンとベッドに寝転がった。志津子が開けた窓から微風が入り、室内の熱気とともに、川口の汗ばんだ体から熱を取り去っていくと、心地よい疲労感を覚えていた川口は、自然と両眼を閉じた。
「ぐくり」③
了。
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