短編小説「神々の黄昏inジャパン」
強烈な西日の照らす、流行りの過ぎた商店街を歩いていて、私は軽い眩暈を覚えた。
シャッターが降ろされたまま、朽ちるに任せた店が多いとはいえ、平日の夕暮れ時ともなれば、仕事帰りの買い物客もそれなりにいて、人通りも少なくはない。
今日は、少し早めの夏休みを取り、実家に帰省して三日目になっていた。散歩のついでに祖母から総菜の買い物を頼まれ、十数年ぶりにこの商店街に足を踏み入れたのだ。
子供の頃の見慣れた風景では無くなっていたことに、時の流れを感じずにはいられなかった。祖母ともよく買い物に来ていた書店やおもちゃ屋は、「シャッター組」の仲間入りをしていた。サビの浮き具合からしても、最近のことではないらしい。
それにしても、暑い。この商店街は、東西に伸びているため、後頭部から背中に掛けて、西日をまともに受ける格好になる。こんなことなら帽子を被ってくれば良かった。
目的の総菜屋に近付いてきた。油の焦げる臭いが濃くなってきている。店の前にはたくさんの買い物客が溢れており、順番待ちをしている様子だった。ここは地元はもちろん、遠方からも、わざわざ名物のメンチカツを買いに来る客もいる、人気店なのだ。
少し人の捌けるのを待とうと思い、ふと横に目を転じると、細い路地が続いているのが目に留まった。
「こんなところに路地なんかあったかな?」
おぼろげな記憶を辿ってみても、思い当たることはない。だが、日陰の魅力には抗しがたく、私は横道に逸れ、路地に足を踏み入れた。
すぅー、と気温が下がった気がした。日陰に入るだけで、こんなにも涼しく感じるとは、すでに熱中症になりかけているのかも知れない。体のサーモスタットがおかしくなっているに違いない。
どこかに飲み物の自販機でもないか、探しながら路地を進んで行くと、道端に床几を出して夕涼みをしているらしい、年配の男性が二人いるのが見えた。向かい合ってお互いに何かを覗き込むようにしているところを見ると、「青空将棋」でも楽しんでいるのかも知れない。
私が近付いて行くと、こちら向きに座っていた男性が顔を上げた。厳めしい顔つきで、立派な髭を蓄え、年齢の割にはスッキリとした体つきをしている。団扇を持つ手も、なかなかに筋肉質だ。
「こんなところに娘さんとは珍しい。迷ったのかね?」
よく透る声で、そう呼び掛けられた。
「あ、いえ、飲み物の自販機を探していたんです。」
その声に、背を向けていた男性も顔を上げて振り向いた。こちらはいかにも好々爺という雰囲気の柔和な顔立ちで、年齢に応じた体つきをしていた。鼻眼鏡の奥から覗く目がクリクリと動き、どことなく可愛げな感じさえする。
「この辺りにゃあ、そんなもんはないよ? 喉が渇いているなら、ほれ、麦茶をお飲み。」
そう言うと、男性は床几の下からやかんと湯のみが乗った丸いお盆を取り出して、床几の上に置いた。
「いえ、そんな! 大丈夫です。戻って探しますから。」
「まあまあ、そう言わずに。お前さん、顔色が少しおかしいぞ。少し、休んでいきなさい。」
断ろうかとも思ったが、確かに、眩暈はひどくなっていたし、どこかに座って休んだ方がいいのは自分でも分かった。既にもう一人の男性が別の床几を出して来て横に並べていたし、話をしていた男性は湯のみに麦茶を注いでいた。水滴だらけのやかんを見て、私は思わずゴクッと喉を鳴らしてしまった。
「さあさあ、遠慮せずに、腰掛けなさい。」
言われるままに腰を下ろし、湯呑を手に取る。ひんやりした瀬戸物の手触りに、一気に気分が良くなった気がする。
「いただきます。」
香ばしい麦茶の香りに誘われて、湯呑を口に運んで麦茶を口に含む。よく冷えた麦茶が口中に広がり、とても心地いい。それだけではない。こんなに美味しい麦茶は、飲んだことがない。スッキリと飲みやすく、柑橘系の爽やかな後味が残る。
「おいしい・・・。」
「ほっ! 良かったわい。ほれ、遠慮せんと、グッといきんさい。まだまだあるから。」
促されるままに、ふたたび湯呑を持ち上げ、こくこくと飲み干す。すぐにやかんが持ち上げられ、おかわりが注ぎ足された。
ひんやりした麦茶が、体中に染みわたる感触が、確かにあった。感じていた眩暈や胃の辺りのムカムカが、麦茶で薄まって、どこかに流れて行ったようだ。
「ありがとうございます。生き返った心地です。」
「なぁに。口に合ったなら、良かった・・・。ほれ、八よ、お前の指し順じゃ。」
鼻眼鏡の老人は、そう言って盤面に視線を戻した。すぐに、髭の老人が駒を取り上げ、ぱちりと置いた。得意げな顔をして、足を組み替える。
「天さん、それは、悪手だなぁ。」
「お・・・おいおい、八よ、待ったじゃ、待った!」
「勝負ごとに、待ったがあるものかよ、天さん。」
私は将棋には詳しくないが、どうやら「天さん」と呼ばれる鼻眼鏡の老人が、「八」と呼ばれる髭の老人に、やり込められている様子だった。湯呑を片手に、やいのと騒ぐ老人二人を、いつしか微笑ましく見つめていた。
間違いなく初めて会った人たちなのに、子供の頃から知っているような、まるで久しぶりに会った自分の祖父のような感覚が、脳裏をよぎる。
「なんだい、お前さんたちは、また将棋かい。」
後ろから掛けられた声に振り向くと、そこには鶴のように痩せた女性が立っていた。優雅に紺地の浴衣を着こなし、長い髪を一束に結んで、後ろに垂らしている。女性の私でも、一瞬ハッとするような美しさだった。
笑っているようでもないのに、新月のように細い目を、ますます細めるようにして、手にした朱色の長キセルを口に運ぶと、ぷかりと口から煙を吐き出した。
「おお、イネさん。この時間に表に出てくるなんて、珍しいね。」
「なぁに、久しぶりに人間の匂いを嗅いだからね、様子を見に来たのさ。」
「イネさん」と呼ばれた女性は、私の顔をジッと見下ろしてから、滑るようにして私の隣に腰を下ろすと、背筋を伸ばしたまま、腰から前に倒れ込むようにして、盤面を覗き込んだ。これだけ動いているのに、衣擦れの音が一切聞こえない。それに、確かに「人間の匂い」と聞こえたが、どういう意味なのだろう。
「あれ、またやられてるのかい。八も、少しは手加減しておやりな。天さん、頭から湯気でも出しそうな按配じゃないか。」
「いやいやイネさん、こう見えて、飛車角落ちで相手をしているのですよ?」
「なんだって? それじゃあ、天さん、よほどに才がないと見えるねぇ!」
そう言うと、イネさんは、ころころと笑った。不思議と、この人とも以前から顔見知りだったような気がする。こんなにきれいな人なら、忘れる訳はないと思うのだけれど、いつどこで会ったのかは、まったく思い出せない。
「やかましいわい。ちょいとその子に気を取られて、油断しただけじゃ。八、どれ、もう一番じゃ。」
「また、飛車角落ちですか?」
「うむ、今度は香車もな。」
呆れたように顔を上げる八さんを後目に、天さんが黙々と駒を並べ直していく。
「天さん、将棋もいいけどさぁ、この子は、どうするんだい?」
「ん・・・そいつは、おイネに任せるよ。」
「任せるったって・・・。仕方ないねぇ・・・。」
どうも、先ほどからの様子を見ると、三人は私のことを知っているらしい。私の方では記憶にないのだが、一様に私に気を遣ってくれているのを、肌で感じていた。
また将棋に夢中になり始めた天さんと八さんを恨めし気に見やり、ふっと溜息を吐いたイネさんが、私に向き直ってこう告げた。
「残念だけど、さ。お前さんの願いの筋は、通らないんだよ・・・。それぞれに結構なお賽銭をいただいたけど、さすがに自分の恋愛成就のために、他人様を蹴落とすようなお願い事は、私たちには聞けないね。」
私は、ハッとした。ここにいる人たちは、私がお参りをした神社の神様なのだ。それぞれ、天神様、八幡様、そして、稲荷様だ。
勤務先で、私は妻子ある人に恋をした。それが相手の奥さんにバレそうになり、ほとぼりを冷ますために長期休暇を取って、実家に帰って来ていたのだ。彼は、その間に奥さんとの離婚を成立させて、私を迎えに来てくれることになっている。
私は言われた通り地元に帰り、近くの天神社、八幡神社、稲荷神社に、それぞれ一万円のお賽銭を納めて、願い事をした。
「どうか、彼の奥さんが素直に身を引いてくれますように。」
と。
「あー、やっぱり、ダメですか? ちなみに、お賽銭を倍にしたら、どうです?」
「いや、お賽銭の問題じゃあ、ないんだよ。他人の不幸の上に成り立つような幸せは、そもそも私たちの目指すところじゃあ、ないんでね。」
「えー、でも、結局は誰かを蹴落として生きていかないと、一番にはなれないでしょ? ほら、そこの将棋だって。」
そこまで言った時、八さんが顔を上げた。
「娘さん、勝負事と願い事は、違う。自分で努力して登りつめていく過程で、誰かを蹴落とすことになるのと、神頼みで相手を蹴落として登りつめるのでは、意味合いが違ってくるんだよ。」
「でも、結果は同じでしょ? それなら、お手伝いをしてくれても、いいじゃないですか。そもそも、あなた勝負ごとの神様でしょ?」
私も負けじと言い返した。こっちだって、必死なんだから。それでなくて、お賽銭に一万円も出すわけがないじゃない。
「ソノ願イ事、私タチガ引キ受ケマショー!」
大きな声に振り向くと、見るからに外国人の男女二人組が、すぐ後ろに立っていた。今の声は、アメリカ人のステレオタイプのように陽気な男性のもののようだ。バイザータイプのサングラスを掛け、動きがギクシャクとぎこちない。
女性の方は、上から下までハイブランドで固めた、いわゆる『バリキャリ』のような出で立ちだ。右手に齧りかけのリンゴを持っていた。
「私ハ、『アンディー』、彼女ハ、『アイ』デース! 様々ナ、魅力溢レル『コンテンツ』デ、アナタノ願イ、カナエマース!」
「本当ですか!? 他人を蹴落とすようなお願いでも?」
「オフコース! ソレハ私タチノ、得意トスルトコロ! 任セナサーイ!」
私は促されるままに、二人の後について路地を奥の方へと向かって進んで行く。今まで気が付かなかったが、路地の先には、ガラス張りのぴかぴかした高層ビルが二棟、覇を競うように天に向かってそびえ立っている。そうだ、あそここそ、私の求めていた世界だ。きっとそうに違いない。
「・・・行ってしまいましたな。」
「そうねぇ・・・。小さい頃は、素直でいい子だったのにねぇ。」
「ほれ、見ろ。俺の言った通りだろうが。いまどき、俺たちみたいな老いぼれは、お呼びじゃあねえのさ。なんでもかんでも、『スマホ様』だ。まあ麦茶の礼を言えただけでも、上出来の部類だろうよ。」
「そんなに、いいものなのかしら?」
「さあ・・・どうなんでしょうな?」
「なぁに、なんのこたぁねぇ、『スマホ様』には、その場しのぎで『幸せ』と勘違いさせられる、いろんな仕掛けがしてあんのさ。しかも、手っ取り早くな。だがなぁ、そりゃ、どこまでいっても『勘違い』なのさ。世の中がどんなに変わったって、『自分だけが幸せになる』ってのは、有り得ねぇ話なんだが、欲に目が眩んで、その、大元のところが、見えなくなっちまってるんだなぁ。」
「・・・この先、我々はどうなるんでしょうな? やはり『スマホ様』に押されて、消えていく運命なのでしょうか・・・。」
「そう、ねぇ・・・。年々、客層が変わってるのは、確かだものねぇ・・・。ろくに拝みもしないで、写真を撮りまくって・・・。一体、自分たちを何者だと思ってるのかしら?」
「へっ! もはや『何者か』なんて考えも、ねぇだろうよ! だけど、それならそれで、いいじゃねぇか。こうしてのんびり将棋を指して過ごすのも、悪かぁねぇだろ?」
「まあ、ねぇ・・・。」
「いいんだよ、それで。ここは、いっつも黄昏時だ。せいぜい陽が完全に沈まねぇように、ここでこうしてがんばってるしか、俺たちには仕様がねぇ。事敗れて、陽が沈んじまったって、俺たちが責められる所以もねぇしな。それこそ、『スマホ様』が何とかしてくれるんだろうよ!」
背の高い二人に挟まれた女性がビルの中に消えた頃、差し込んでいた西日はようやく建物よりも沈み、商店街がその影に包まれた。
路地は相変わらず黄昏時のままだったが、ほんの少し、明るさに陰りが差したようだった。
神々の黄昏inジャパン
了。