「吉野家コピペ」を味わい尽くす
こんにちは。れんかと申します。
突然ですが、皆様はコピペをご存じでしょうか。
そう、貼るやつ。ではあるのですが、今回注目するのはコピペを行うためのショートカットコマンドではなく、コマンドによって貼られる方。
例えばこれ。
美しい…
失礼、見惚れてました。コピペの説明でしたね。
これは、書き出しのまま「初カキコ…ども…」と呼ばれる文章。出典や歴史については下記リンクを参照していただきたいのですが、簡単に言ってしまえばインターネット上の面白い発言が丸々あるいは一部改変されて流用されているわけです。これが、ここで言う狭義の「コピペ」です。元の発言をctrlC&Vで引っ張って活用するからコピペ、ということ。
さて、インターネットの歴史はコピペの歴史、とも言います。僕は。要するに、星の数ほどあるコピペを網羅することは不可能。さらには、コピペになれるだけのポテンシャルを持っていながらも発掘されなかったセンテンスのことまで考えれば、その全容を把握することは一生をかけても不可能でしょう。惜しい。あまりにも惜しい。しかし、それ故に私たちには少なくとも先人達が護り受け継いできたコピペ達だけは次世代に繋ぐ使命がある、そうは思いませんか?
時に、皆様は古文はお好きでしたか?
中学・高校では大体の学校で必修の科目として置かれていたと思います。授業の流れとして、教科書に本文のみが載っている状態で、授業の中で現代語訳を順次教えてもらう、という形が一般的でしょう。
しかし、そもそも現代では使われていない語や、形は今と同じでも意味はまるっきり異なる語に惑わされたり、現代では失われてしまった文化・思想に基づいた記述の理解に苦しんだ人も少なくないのではないでしょうか。日本語のネイティブである我々が、同じ言語であるにも関わらず教えてもらっても意味の理解に苦しむ。
ということは、時代の経過とともにそこに込められた意味や想いが風化してしまう、とも言えないでしょうか。
僕は古文がそこそこ好きでして、なんとなく高校までの古典の授業を思い出しながらこのようなことを思っていたのです。しかし、不意に気づいてしまいました。
これ、コピペにも同じことが起こるんじゃね…?
と。
これは一大事。最初に挙げた「初カキコ」は、厨二病・セルフツッコミ・ヒトラー・義務教育など、インターネットという独自の文脈における様々な構成要素が複雑に折り重なった結果として、幽玄の美を醸しているのです。
同様に、
こちらは、俗に「くぅ〜疲」と呼ばれるコピペ。これもまた、SS・俺君・まどマギなどが織りなす均整の美であると言えるでしょう。
しかし、現在進行形でSSや俺君などの文化が消えゆく中、その美しさを理解できる若人はどれほど残っているのでしょうか。
この記事は、私が最も愛するとあるコピペを隅々まで解説し、後世にその美しさを伝えたい、という思いのもと作成されています。ゆくゆくは国会図書館にデジタル資料として残して欲しい。
そのコピペがこれ。
失敬、興奮してきました。
こちらは、記事タイトルにもある所謂「吉野家コピペ」です。ともあれ、一目でわかるこのコピペの美しさ。これを後世に残さずしてどうしましょう。
そこで、ここからはこのコピペの美しさを可能な限り説明していきたいと思います。
まず、このコピペのバックボーンから。
こちらは、2001年に投稿された個人ブログ中の記述です。
古典において、更級日記、蜻蛉日記など日記文学と呼ばれる作品群は、作者の記述を通じて当時の出来事や暮らしぶりだけでなく、それらによって生じる感情の機微まで私たちに伝えてくれます。日々の出来事を綴るという点で、個人ブログと日記はほぼ同一のものと言って良いでしょう。
しかし、ブログは誰かに閲覧されることが前提となっているもの。私的な日記とは少々性格が異なる面もあります。この点では、随筆が近いでしょうか。枕草子や方丈記など、作者の鋭い観察眼や豊かな感受性が光る名文達は現代でも読み継がれています。
つまり、個人ブログは匿名性と不特定多数からのアクセスにより、日記と随筆の両方の性質を併せ持つ、インターネット文化が産んだ新たな文章の形であると言えるのです。謂わば、コピペ文学。
そして、そのコピペ文学の代表作として読み継がれるべき名文こそが吉野家コピペである、と私は考えています。
さて、そのコピペ文学史に燦然と輝く本文の前に、まずは原文が記載されたページから見ていきましょう。大百科のリンクから飛べます。
青
そう、青い。めちゃくちゃに青い。素朴な味わいのページレイアウトの侘び寂びを吹き飛ばすくらいには青い。もうこの時点でだいぶヤバい。
我慢できなくなってきたので、本文の吟味に入りましょう。
ヒャッ…
まずは導入部分。日記らしくその日の出来事を端的にまとめた良い書き出しですね。起こった出来事自体は、少々残念には思うでしょうが、ともすれば床に就く頃には忘れてしまいかねない、何気ない日常の一コマ。これに対して作者は何を思うのでしょうか。
ハアッ…ハアッ……
めちゃくちゃに怒っていました。そして、注目すべきは太字部分。このコピペにおける頻出表現、暴言止めです。体言で文を締め、文中における体言の存在感を高める、あるいは独特のリズムを生み出す表現技法である体言止め。
それと同様に、このコピペは暴言止めの巧みな使用により独特なリズムを持たせるとともに、作者の強い怒りを鮮明に浮かび上がらせています。それはさておき150円引きはかなり大きい気もしますが。しかし、これはコピペ文学界の金字塔。彼の怒りの理由という伏線も、見事に回収してくれることでしょう。
んっ…
怒りは止まず、重なる暴言止め。大盛りを頼むことがおもろいと思っている父親、というリアルを克明に描きつつ、『おめでてーな』『見てらんない』等の発言は、突き放しているようでいて自身の境遇との対比というニュアンスも僅かに感じさせます。トーンダウンした暴言に滲む思いには、どこまでも考察の余地があるでしょう。
………っ………はっ…はあっ……
伏線回収です。彼にとって吉野家とは戦場であり、聖域であったのです。故に、150円に揺れる心など無用の長物。彼が其所に追い求めるのは一分の隙もないオーダーと洗練された箸捌きで牛丼を喰らう好敵手なのですから。
…あっ………あっ…………あ"ッ"……………!
『問いたい。問い詰めたい。小1時間問い詰めたい。』
この部分はご存知の方も多いのではないでしょうか。軽妙なリズムの中に確かな怒りを滲ませるこの一文は、様々に形を変えて引用されています。
しかし、もう一度。先入観を取り払って読んでみると、実に示唆に満ちた記述ではないでしょうか。流行りやトレンドに流されがちな私たち。特に、現代においてはそれらは数値を伴った事実として私たちに同化を強いてきます。
つゆだくで。ともすれば無意識にも発しかねないその一言で、私たちは凡百の一に成り下がるのです。態々注文した牛丼までをも迎合の為のアイテムにして。そんな私たちに、今一度牛丼を頼む意味、ひいては生きる意味を問うのがこの一文である、とは言えないでしょうか。
おぉっ、っほぉぉぉ、んぉっ、ォッ、ぉっぉぉぉ…!
先の解釈に矛盾するのではないか、と賢明なる読者諸兄は思うかもしれません。
しかし、彼はトレンドを産み出す側に立っているのです。牛丼。この語を良く見ていただきたい。牛の丼。つまり、牛肉が主役であり、牛肉を楽しむことが当然のような名付けが行われている。彼らはこれに異を唱えたのです。さながら教会からの弾圧に耐え自説を展開した地動説論者のように。気高く凛々しきその姿。後に、吉野家のグランドメニューにはねぎだくが追加されます。これは、彼らの産み出したトレンドと熱意が企業をも動かした、と取れるでしょう。ギョクという符牒が吉野家で用いられていないなんて、どうでもいい。意志の力はそんなものなんて乗り越えられるのですから。
オホ声、流行ってますよね。流行ってるんですよ、ご存知ない方。特定の界隈で。ASMRで。何かこういう言い方だといちゃもんつけるみたいになっちゃいますけど、別に否定はしませんよ?確かに。良い作品はあります。良い作品もあるんですが、全体的にオホらせとけばいいでしょ、みたいな風潮にはなんだかなー、って思っちゃいます。重ねて言いますけど、別に聞いてる人を否定する気は一切ないんです。売り手、というか作り手の話。こっちは真剣にASMR聞いてんですよ。ちょっと躊躇する千数百円を払って。で、出てくるものは徹頭徹尾濁点濁点。零点零点。舐めてんすか?ねぇ?僕はオホるまでの機微とか情動とか、そういうのを求めてんすよ。じゃあオホとか無いの買えって?それはさー、違うじゃん。オホ声自体は嫌いじゃないのよ。御子柴泉さんとか、涼花みなせさんとか、良いよ、めっちゃ。かと言ってサンプルで静かめなの買うとずっと静かなままだったりするんすよ。まあ確かに損はしてないけれど。ちょっとした博打、ちょっとした冒険のつもりが肩透かし喰らうのもなんか悲しいじゃんね、ってこと。買った時の僕の決心はどこに行ったのって。難しいね。何の話だっけ。
しかし、同時に彼らの歩む道は波乱に満ちた茨の道。
傷を負ってまでそれを切り拓くのは俺達に任せてくれていい、という彼なりの優しさを暴言の中に滲ませつつ、このコピペは締め括られます。
追撃。多くのコピペでは省略されてしまうこの部分。ここも味わい深いとは思うのですが、国会図書館のデジタル資料に金の無心は載せられないので。
以上が吉野家コピペとは何か、という問いに対する私の解釈です。
2モーションで終わってしまうコピペ。しかし、そこには多くの人の思いが籠っているのです。皆様も、何気なく使っているコピペに想いを馳せてみては如何でしょうか。
終わります