「そこにどんな背景や意味があるのか?」を伝える役割
ちょっと話が長くなりそうですが、この土日の出来事と、そこから感じたことについて書いてみます。
Voicyトップパーソナリティの田中慶子さんと、リスナーさんたちが台湾へ!
まず土曜日。
Voicyパーソナリティを務められており、オードリー・タンさんの同時通訳(英語→日本語)を何度も務められている田中慶子さん、そして慶子さんのリスナー・通称「タリキーズ」の皆さんが、なんと台湾でオフ会を開催され、会いにきてくださいました。
初めてリアルでVoicyパーソナリティ&リスナーさんにお会いでき、感激の体験でした。
みんなで街歩きツアーへ
みんなで台湾で人気の街歩きツアー会社「島内散歩」の散策ツアーに申し込み、北門・総統府・中山堂・西本願寺あたりを巡りました。
総統府は平日は一般開放されていますが、休日は月に一度しか開いていないので、入ることができてラッキーでした。(さらに、鶏おばちゃんに遭遇して一同感激!)
夜は完全に写真を撮り忘れましたが、私の大好きな台湾料理レストラン「My灶」へお連れしました。気に入っていただけたかな…?
慶子さんからは、「タリキーズ」に対して私のチャンネルリスナーさんたちに「トリキーズ(鶏おばちゃんにちなんで)」という名前をいただき、なんと姉妹チャンネル認定をいただきました!
「タリキーズ」と「トリキーズ」で合同のオフ会を開催したいね、といった話にもなりました。どうなるかドキドキです。
日本語でガイド「日本時代の台北城ツアー」
近年、台湾では「台湾とは何か」「台湾人とは?」といったアイデンティティを模索する気持ちが強まっています。私と同じかそれよりちょっと上の世代の台湾人たちには、学校でも中国大陸の歴史を学び、台湾の歴史はあまり知らないという人が多く、「子どもたちとともに、台湾の歴史を学び直したい」と考える友人もいます。
そうした背景から、ツアー会社「島内散歩」は大人気の引っ張りだこ。
タリキーズの皆さんは、その中の「日本時代の台北城ツアー」にプラスして、台湾総統府の見学コースを選ばれました。
これは個人的な考えですが、日本人観光客が、台湾の人々の言葉で日本統治時代の歴史について語り聞くこと自体にとても意味があるように感じています。
と同時に、日本語ネイティブとして、台湾の歴史を学んでこなかった日本人として、私自身にも果たせるものがあるのかもしれないと感じました。それはたとえば、拙くて勉強不足ではあるけれど、「そこにどんな背景や意味があるのか?」を伝えることも必要なのではないかと思うのです。
「湾生」新元久さんの講演会へ(片倉佳史さん主宰「台湾を学ぶ会」)
「湾生」という言葉をご存知でしょうか?
日本統治時代の台湾に生まれ、台湾で育った日本人で、第二次世界大戦で日本が敗戦したことにより、日本に引き揚げて来られた方々のことです。
ご高齢にはなっていますが、日本には今でも多くの「湾生」がいらっしゃいます。私と同じ世代には「自分の親が湾生です」という方も多く、ご自身の系譜とその周辺をたどって台湾を訪れるという方も少なくありません。
この度、1931年(昭和6年)に台湾で生まれ、日本の敗戦で1946年(昭和21年)に日本へと引き揚げ、今年92歳になる「湾生」の新元久さんが台湾に里帰りされるということで、片倉佳史さんが主宰される「台湾を学ぶ会」の皆様のご厚意によって講演会が開催されました。
日曜のことです。
新元久さんはお祖父様が台湾総督府鉄道部の部長(大臣)で、お父様が明治製糖株式会社の重役というご出身で、日本へ引き揚げられた後に東京大学に進学されるほど頭脳明晰ということもあり、当時の記憶をとても鮮明にお話してくださいました。
新元さんから台湾における製糖産業のお話を伺っていたら、日本の歴史の教科書に出てきた人物の名前がたくさん出てきて、歴史に疎い私でもワクワクしてしまうほどでした。
新元さんご本人は大学卒業後に明治製菓へとご入社されたそうで、なんと、日本でもおなじみ「アポロチョコレート」や「きのこの山」の考案者なのだそうです。
もちろん、楽しい話ばかりではありません。
「台北大空襲(※)」のお話は当時の様子がありありと伝わってきて、背筋が凍るようでした。
私が参加した日本語による講演会の前日は、別の会場で台湾人向けに逐次通訳をつけての講演が行われ、大盛況だったようです。(私の台湾人の知人も参加していて、感動したとFacebookに投稿されていました。)
実は、台湾人向けに講演会が行われたのはとても特別な場所で、新元さんが台北で暮らされていたお家を台湾が文化施設としてリノベーションした「台湾文学基地」だったのです。
↓ 「台湾文学基地」オープン当時の様子
新元さんは台湾で暮らされていた当時、何度もお引越しをされていますが、
日本で暮らしながら、いつもこの台北のお住まいをGoogleマップでご覧になっていたそうです。
この宿舎はなんとか取り壊しを逃れ、保存されてきたものの、廃墟のようになっていました。それがなんと、以前新元さんが暮らされていたお家は、今は抹茶やスイーツがいただける素敵なカフェ「Matcha One」になっています。
台湾の最高学術研究機関である「中央研究院」の黃智慧さん。
台北市政府による調査は2000年に実施されたものの、あまりはっきりした数字ではないと思われること、そんな中で新元さんの証言は本当に貴重であると話されていました。
台湾に生まれ、台湾で育った引揚者「湾生」ですが、現在はご高齢の方が多く、台湾の訪問が難しくなってきていているそうです。
新元さん、片倉佳史さんをはじめとする「台湾を学ぶ会」関係者の皆様、貴重な機会を本当にありがとうございました。
台湾と日本を“つなぐ”活動
片倉佳史さん主宰の「台湾を学ぶ会」では、片倉さんと、その妻さんの片倉真理さんほか、この活動に意義を感じる多くの方が事務方として運営してくださることで成り立っています。
「湾生」のほかにも、片倉さんご夫婦がライフワークのように聞き取りを続けられている「日本語世代」と言われる日本語教育を受けた台湾の方々がいて、「台湾を学ぶ会」ではそうした方々をお迎えしての講演会なども開催されています。
日本統治時代に「日本人」として生まれ、日本語教育を受けた日本語世代は、青春期を日本人として生きた方々です。
「日本語世代」の中には、今でも「日本語を台湾に残そう」とご高齢になった今でも熱心に活動されていらっしゃる方々もいて、そうした方のサポートをされている台湾在住の日本人の方もいらっしゃいます。
タクシーの運転手さんや、街中で、「うちのおじいちゃん・おばあちゃんは日本語が話せます」と言われたことはないでしょうか?
その方々は、もしかしたら「日本語世代」かもしれません。
その「日本語世代」の方々が、日本統治時代の話を受け継いでくれているから、今の私と同じくらいの世代の方には日本に対して良いイメージを持っている方も多いと思います。(ただ、個人的にそれは「親日」というよりも、日本を懐かしむ「懐日」であるように思えたりはしています。)
話が広がりすぎましたが、台湾の中で今も日本は生き続けていて、それを伝え続けられている方々が(日本人・台湾人に関わらず)たくさんいるということが少しでも伝わったら嬉しいですし、子どもたちが少しずつ大きくなってきたこともあって、私自身も自分なりの方法で貢献できたらという思いを強くしたのでした。