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第33章 長女の看護学校 | 追尋 — 鹿港から眷村への歳月

訳者補足:オードリー・タンの父方の祖母、ツァイ・ヤーバオの自伝『追尋 — 鹿港から眷村への歳月』の第33章です。

※ 原文内容の事実確認による検証・訂正などはせず、そのまま記載しています。

長女と看護学校のクラスメイトたち。
(写真最前列が長女の春蘭)

 民国60年(西暦1971年、昭和46年)のある日、長女の春蘭が「自分は高校の夜間部に通い、家計の負担を減らすために、働きながら勉強する」と言い、私はとても感動しました。

 二人の娘たちが中学に通っていた頃、当時の眷村には、台北の貿易会社からさまざまな糸を持ち帰り、皆に洋服の編み方を教えて商売をする崔ママという奥さんがいました。若く、才能にあふれた人でした。編み模様はどれも美しく、アメリカに輸出されるものだと聞きました。

 村の外からも多くの人が習いに来ていて、覚えると毛糸を受け取って帰っていきました。この仕事は多くの家庭に収入をもたらしました。

 私の二人の娘たちは当時中学3年生と1年生で、時間さえあれば崔ママのところへ行って糸をもらってきては、服を編んでお小遣いを稼いでいました。私がうっかりしていたのですが、長女はもう中3なので、アルバイトはやめてしっかり勉強するよう言いました。

 長女はあまり口数が多い方ではありませんでしたが、台北市の商業高校の夜間部に合格しました。中学校の担任教師はこのことを知ると、すぐに高校の近くで長女に仕事を探してくれました。

 長女の高校が始まる前のある日、私たちが通う教会の神父さま(素直で親切で、心の温かいベルギー人)が家に来て、長女の進学について尋ねました。
 私が長女の決断について説明すると、彼は頭を横に振って、長女に向かって言いました。

「女子が夜間に行くのは大変な道です。
私は「耕莘護校(訳注:看護師や助産師を育てるための職業訓練専門学校)」を受験することをおすすめします。
カトリック教が設立した耕莘病院が今年、看護学校を設立するようなんです。信者の子どもであれば学費も優遇されますし、私が助成金の申請を手伝うこともできます。そうすればご両親の負担も軽減できます。
何より、看護学校であれば学校を卒業すればすぐに仕事が始められます。ちょっと考えてみませんか? 2日後にお返事をください」

 神父さまが真剣に話終えると、私たちは皆で頭を下げてロザリオを唱え、聖母マリアに娘が歩むべき道を示していただけるよう祈りました。

 神父さまが帰られた後、私と夫は話し合い、長女の意見を聞き、最終的には彼女自身に決めてもらいました。彼女は耕莘護校に行くことを選びました。設立第一期なので、講師陣が優れているのではないかと考えたのです。

 このようにして娘は商業学校ではなく、看護学校に入学しました。

 私たちの決断を神父さまに伝えると、彼はとても喜び、台北聖母聖心会に助成金の申請をしてくれました。おかげで娘は一学期に1,400元の学費補助を受けられることになりました。

 耕莘護校では助産学について学ばなければならなかったので、普通の高校より一年多く、4年かけてやっと卒業することができました。

 看護学校の勉強はとても大変で、2年生の後期からは大病院での実習が始まります。ただ、学校生活は非常に充実していたようで、私は神父さまに感謝しました。

 実習しながら勉強する4年間の看護学校生活はあっという間に過ぎ、卒業間近となった春蘭は実家に戻ると、私たちにこう告げました。
「先生が聖若瑟医院で働けるように手配してくれたから、卒業したらそのまま働けることになったよ。それともう一つ良い知らせがあって、看護師の国家試験に合格したよ」
 それを聞いた皆は大喜びです。

 長女は初任給を受け取り休暇で帰ってくると、たくさんのアイスキャンディーを買って、近所の子どもたちに配りました。

 さらに、給与の半分(2,000元強)を私に渡すと、「お兄ちゃんも弟も妹も、まだ学校に行っているでしょう。これからは私が毎月、家にお金を入れるようにするからね」と言ったのです。

 彼女からお金を受け取り、私は本当に感激しました。娘の助けがあれば、家計はどれだけ楽になることでしょう。長い時間が過ぎましたが、子どもはついに大人になりました。本当に良かったです。

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近藤弥生子 | 台湾在住ノンフィクションライター
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